abyss 暗闇へ


 激しい息遣いが聞こえる。生き延びてゆくために、必死になって。
 苦しくても、つらくても、走ることを強要される。逃げなければならない。後ろから、闇が迫ってくるんだ。
 ここには、自分の望むものは何もない。あるのは、不安と、恐怖と、痛みと、絶望だけだ。何も与えられない、その苦しみから逃れたくて。
 目指すべき場所なんかない。自分の息遣いすら耳障りだから、耳を塞ぐ。泣き出したいのも抑えて、誰にも心配させたくないから、それだけ…。



 朝、目が覚める。例の如く、すっきりしない朝だ。母に血圧が低いからそう感じるんだと教えてもらったことがあるが、たぶんそのせいだけではないと思う。
「った!」
 身体を起こした時に激痛が走って、思わず声を出してしまう。だが、もはやそれは慣れたことのように感じていた。そう思えてしまうあたり、この心はすたれているということか。
 自分以外誰もいない部屋だが、誰にも聞かれないようにこっそりため息をつく。だが、気重な身体を何とか奮い立たせ、ようやくベッドから起きあがった。
 学校に行くために、パジャマから用意しておいた服に着替える。身体を動かすたび、そこら中で悲鳴が上がった。
 まだ幼い身体には、青痣や擦り傷など、無数の傷痕がある。本当なら尋常ではない状態だが、身体さえ見られなければ普通にふるまえる。それさえも慣れだった。
 着替え終えて、階下へと降りる。そこには、おいしそうな匂いが満ちていた。
「あ、おかあさん!」
 久しぶりに見る母の姿を認め、嬉しくなって叫ぶ。すると、彼女はいつものように優しく笑ってみせた。
「おはよ、柊ちゃん。今日は柊ちゃんの好きなオムレツだよ?」
「やったぁ!」
 憂鬱な気分を押し込めて、無邪気に喜んでみせる。でも、嬉しかったのは事実だ。
 母は看護師で、父は刑事だからほとんど両親は家にいない。だから、家にいて、ご飯を作ってくれるという当たり前のことですら、喜ぶべきものなのだ。
 母の料理は、特別においしいというわけではない。それでも、それがどんなおいしいレストランの料理よりもおいしいものだと感じられるのは、家族というかけがえのない存在が作ってくれるものだからだろう。
 その母に、いつものように他愛もないことを話しながら、作ってくれたオムレツを食べる。そこだけ見れば、幸せな時間と言えるだろう。だが、気付いているのかいないのか、これもいつものように、学校でのことだけは母に話さなかった。
 暫くしたら、姉が起きてきた。今度は3人で他愛もない会話をしていると、出かける時間が来て、姉と一緒に学校に行く準備をする。
「じゃあお母さん、行ってきます!」
 元気よく言って、香織は先に外に出る。その後を追って、靴を履き、外に出ようとすると、
「あ、柊ちゃん」
「…何?」
 呼ばれたので聞き返してみれば、母は少し困ったような表情をする。だが、すぐに何でもないと首を振って、優しい笑顔を見せてくれた。
「ううん、良いの。柊ちゃんも、かおちゃんも、いってらっしゃい。気をつけてね」
「うん、行ってきます」
 母の言葉に頷いて、2人で学校に行く。
 姉とも何気ない会話をしながら学校に歩いていって、到着すると、姉とは教室の前で別れた。
「じゃあね、柊ちゃん。何かあったら、ぜったいお姉ちゃんのところにくるんだよ?」
「うん、わかってる」
 お決まりの台詞に頷いてみせ、香織が安心して歩いていく背を見送ってから、教室に入る。
 姉の心遣いが勇気になって、何とか前に進めることが出来る歩。それも、自分の机の目の前で止まった。
 確かに自分の机のはずのそこに、クラスメイトが悠々と座っている。彼は、まだ持ち主の気配に気付いた様子はなかった。
「あの、そこ、ぼくの席…」
 思い切って、言ってみる。すると、バカみたいに笑っていた少年の声が途切れた。
「なんだよ、仁科。きょうもきたわけ?」
 相変わらずの、冷たい言葉。心に刺さっていくのを感じながらも、何とか言葉を紡ぎ出す。
「くるもん。行かなきゃ、だし…」
「べつにだれかが待ってるわけでもないのに。つーか、だれもまってないし」
 彼が言った瞬間、クラスの中から笑い声が聞こえる。「それひどすぎ〜」なんて言葉も聞こえるが、勿論本心ではない。ただ面白がっているだけだ。
「ほんとめざわりだからさ、消えてくれない?」
「でも、そこは…ッ!」
 クラスメイトの容赦ない言葉に、それでも言い募ろうとしたが、言葉半ばでそれは叶わなかった。思い切り突き飛ばされて、背中を近くの机にぶつけ、思わず息が詰まってしまう。
「うるさいな!いやなら来なきゃ良いんだろ!うっとうしいんだよ、お前!」
 怒鳴り声の後に、また笑い声が聞こえる。自分を、嘲り笑う声。これも、慣れたことと自分に言い聞かせる。それでも、反撃できない自分が悔しくて、みんなの声がうるさくて、唇を噛み締めていた時、
「何やってるの、あなた達!?」
 ホームルームの時間になって、担任が教室に入ってくる。だが、これもいつものことで、クラスメイトの1人がフォローに回る。
「あ、仁科くん、つまずいてこけちゃったんです」
 現状からすれば下手な誤魔化しに聞こえたが、それでも疑問に思うことはなかったのか、担任は「大丈夫?気をつけてね」とありきたりな言葉をかけただけで、気にした風は全くなかった。
 そのまま、先刻までの雰囲気は消え、普通の教室の状態になる。だが、それが見せかけだけということは、自分が一番よく解っていた。
 それからは、担任がホームルーム終了後、授業を続けて行ったため、クラスメイトの誰からも先刻のことを非難されることはなかった。
 先生が見ていれば、大人しい生徒を演じていてくれる。正直、小学校の授業は面白いとは決して思えなかったが、そこが救いになっていたので、安らぎの時間にはなれた。でも、休憩時間になれば今度は何が待っているか、全く見当もつかない。そんな、闇の中を手探りで進むような恐怖を与えてくれるのも、この時間だった。
 そうやって、様々なことを思案しているうちに、2時間目の終了のチャイムが鳴って、大げさなほど反応してしまう。周囲を見てみれば、この長期休憩を利用してどこかに遊びに行こうとしているクラスメイトの姿が見て取れたので、厄介なことになる前に、こっそり教室を出た。
 そのまま、人目を逃れるようにして屋上に通じる階段のところに来る。本来は出てはいけないことになっているのだが、実は大した鍵がかかっていないことに最近気付いたので、こっそり安住の地にさせてもらっているのだ。
 屋上に出てみれば、校庭で遊ぶ生徒の声が聞こえてくる。30分という長い時間の休憩なので、外に出ている者も多いようだ。だが、他の生徒にとっては楽しい時間でも、全員がそうだとは限らない。
 誰もいないと解っているはずの場所で、また気付かれないようにため息をつく。それが、いつの間にかクセになっていた。
 一応、屋上に通じるドアが、普通の子供の力では簡単には開かないことを確認して、いつものように日陰に座ろうとしたが、
「ッ…!」
 指先に痛みが走ったので見てみると、うっすら血がにじんでいる。どうやら、壁に手をついた時にどこかで切ったらしかった。
「なんなんだよ、もぅ…」
 思わず悪態をついて、血を舐めとる。だが、その指先には、もう傷痕はなかった。
 誰もが、自分の境遇に気付いてくれない。それは、この回復の早さ。おそらく、朝痛みを伴った傷も、帰る頃には目立たない程度になっているだろう。だから、自ら言わない限り、今の状況が変わることはない。解っている。そんなことは解っているはずなのに…。
「いえるわけ、ないよ…」
 もう治ったはずの傷が痛くて、それ以上に胸が痛んで、立てた膝の中に顔をうずめる。
 苦しくて、つらくて、息が出来なくて。泣き出したいのに、涙が枯れてしまったかのように涙が出てこない。この想いを、紛らわせる術も見つけられない。
 無限ループのような気がした。終わりが見えず、同じことを繰り返すだけの。
 父さんは、1人で留守番をしていて偉いな、と言ってくれる。でも、本当は偉くないよ。独りが寂しくて、でも、それを言えないだけなんだ。
 母さんは、自分で自分の服をたためるようになったんだね、って褒めてくれる。でも、本当は自分のこと何にも出来ないんだよ。あいつらに、やめてって、言うことも出来ない。
 もっと、もっと、良い子にしてるから。わがままも言わないようにするから。お願い、この無限ループを止めて…。



 かなり強い陽射しがコンクリートを焼き、照り返しのおかげで余計に暑さが増す。唯一の救いは、湿度が低いくらいか。
 やはり、いつまで経っても夏は好きにならないだろうと思う。外に出て動かなければならない分、やっていられないほどの気分になる夏よりも、動くことで程よく暖かくなれる冬の方がまだマシだ。ただ、職業柄、そんなことも言っていられないのがつらいところだが。
 今日も、外に出て捜査を続ける。始めは自分で選んだわけではないが、それでもここまでやってきた刑事という職業だ。ちゃんとやり遂げたいという想いはある。ただ、
――暇な奴らは良いよなぁ…。
 自分と同じ年の頃の少年達を見るたび、思う。そんなことを言っていても始まらないのだが、それでも学生らしからぬ自分の境遇には時々同情したくなる。
 隣を過ぎていく高校生ぐらいの者達の会話は、他愛もない。羨ましさはないにしても、気楽だなぁとは思ってしまう。  そんな会話を、聞くともなく聞いていたのだが、
「つーかさぁ、あいつマジで鬱陶しいよねぇ?」
 不意に、真横を通り過ぎた少女が、そんなことを言う。刹那、身体が凍りついたように動かなくなった。
 自分に言われたものではないと解っていても、過去の記憶が強い衝撃を与えてくる。
 忘れたいのに、忘れられない過去。それが、こんなにも心を支配している。
 それでも、何とか落ち着かせるために、深呼吸をしようとした瞬間、
「うわっ!」
 何かが背中にぶつかってきて、バランスを崩す。何とかギリギリのところで受身を取れたが、倒れてきたものが追い討ちをかけて、思い切り顔を地面に打ち付けた。
 そのまま、数秒ほど悶絶した後、ようやく痛みから立ち直って、倒れてきた人物を怒鳴りつける。
「翠ッ!てめェ、どこ見て歩いてンだ!」
「それはこっちの台詞だ!いきなり立ち止まりやがって!」
 怒鳴り返してきた後で、翠ははっとした表情を作り、次いでバツの悪そうな顔つきになる。
「ったく、お前といると、ほんと悪影響ばっかりだ」
「本性見せただけだろ?」
 悪態をつく翠に嫌味っぽく言ってやると、思いっきり睨まれる。それを苦笑でかわし、言葉を紡いだ。
「悪かったって。ちょっと考えごと、な…」
 言ってみると、それだけで悟ったのか、翠が頷いてくる。そして、先に立ち上がると、こちらに向かって手を伸ばしてきた。
「ほら、いつまで座ってるんだよ?まだまだやることはいっぱいあるんだからな」
「解ってるよ」
 笑顔で言ってくる翠の言葉に頷いてみせ、手を借りて立ち上がる。
 暗い闇の底から完全に抜け出すにはまだ時間がかかるかもしれないが、いつかは抜け出せると、そんな気がしていた。





あとがき:
左京さまより、700HITのリクとしていただきました、ダークな小話です。
翠か柊一のどちらか、ということでいただいていたんですが、ぼくとしては柊一の方がダークネタを書きやすかったので、柊一に。 それにしても、久々の小説更新のような気がします。
しかも、中身少し短めですが。
これでも長くなった方なんですよ。
左京さまにリクをいただいたのはダークな小話、しかも子供時代のみで、ってことだったので、本当なら☆の2つ目の前で終わりだったのですが、ぼくの個人的な意見により、後半部分を加えさせていただきました。
左京さま、こんなわがままを聞いていただき、そして、リクの報告もしていただき、ありがとうございました。
〔2004.7.30〕