かぜとこころ


 その日は、なぜか寝て起きてからの記憶がなかった。目覚まし時計が鳴って、目を覚ましたはずなのに、気付いた時にはなぜかベッドに逆戻りしている。
 ベッドに横たわったまま、幼い少年は暫し黙考した。少しずつ、記憶を辿っていく。だが、途切れるところはいつも同じだった。
 そのまま考えが堂々巡りを始めて、そろそろ頭の上に疑問符が浮かぼうかとした時、
「気がついた?柊ちゃん」
 声をかけられて、柊一はのろのろと顔をドアの方に向けた。そこには、安心したような表情を浮かべる少女のような顔立ちの女性の姿があった。
「あ、おかあさん…」
 それだけ言って、声がかすれていることに気付く。自分でも訳が解らずに驚いていると、母は優しい笑みを浮かべて、温かいミルクを差し出してくれた。
「柊ちゃん、風邪引いたみたいだね?熱のせいでふらついて、階段から落ちたんだよ」
「あ…」
 言われて、何となく思い出す。だが、記憶の最後は目の前に見えた階段と浮遊感だ。どうやら、階段から落ちる前に記憶を失ったらしかった。
 とりあえず、寝起きで喉が渇いていた、というのと、落ち着きたくて、柊一はホットミルクを一口飲む。あたたかくなって薄まった味を補うように砂糖が入っていて、少し甘かった。
「それ飲んだら病院行こっか?葉月先生に見てもらお?」
 穏やかな母の言葉が耳に届いて、柊一は思わず固まってしまう。今母が何を言ったのか、と我が耳を疑ったが、母を顧みれば「ね?」と返されて、今の言葉が現実であったことを知らされる。
「いやぁ、ちゅうしゃきらい…」
 一生懸命に首を振りながら、柊一。注射針の痛さもさることながら、葉月が冗談で大きめの注射器をちらつかせるのでなおのこと恐い。
 そんな想いが届いたのか、由香は優しい声音で言った。
「大丈夫だよ。今日は注射しなくて良いから。でも、お薬は飲まないとダメかな?」
「おくすりも、やぁ…」
 言って、熱さましの薬を差し出してくる母の言葉にも首を振る。子供用に甘くしてある薬とはいえ、苦味が全くないとは言えない。それに、風邪を引きやすい体質であるからか、苦い薬に出くわすことも多い柊一だ。早く治りたいとは思うものの、どうしても素直に受け入れられない。
 だが、こればっかりは母も許してくれなかった。
「ダメだよ。ちゃんと飲まなきゃ、しんどいままなんだから」
「それでもヤなの。にがいのやぁっ!」
「柊ちゃん、良い子だから」
「やだーっ、もう、おかあさんなんかだいっきらい!」
 無理矢理薬を飲まされかけ、ついそんな言葉が口をついて出てしまう。そのおかげで母の動きは止まったが、表情は悲しげだった。そこで、自分が言った言葉の重大さに気付く。
「あ、あの、おかあさん、ごめんね?おかあさんのこと、だいすきだからっ、おくすりもちゃんとのむから、そんなおかお、しないで?」
 どうして良いか解らなくなって、とにかく母を慰めようと必死に言葉を重ねると、彼女はようやく顔を上げてくれた。
「ほんとに?」
 聞かれて、勢いよく頷く。勢いが良すぎて軽くめまいがしたが、それでも母が笑ってくれたので良しとする。
「じゃあ、一緒に行こうね?病院」
「う、うん…」
 笑顔の母の言葉に、一瞬早まったかという気もしたが、今更引き返せず、頷く。この後に待ち受けているであろう恐ろしい運命が頭をよぎりはしたが、もはや逃れられるはずもなく、ただ無事に時がすぎてくれることを祈るしかないのだった。


 病院の雰囲気が、昔から大嫌いだった。病院が好き、という人も少ないかもしれないが、多分、普通の人よりはずっと苦手だと思う。それは、きっと、いや多分に主治医のせいであるのだろうが。
「そんなに嫌なら始めっからついてこなければ良いだろ?」
 半眼で言われ、柊一は思わずその相手を見た。だが、注射針が刺さっているところを見てしまい、すぐまた目をそらす。ヤバイと思った時には、会話していた相手、翠は、不敵な笑みを浮かべていた。
「顔に似合って子供っぽいとこあるんじゃないか?」
「顔に、っつーのは余計だ。それに、別に注射がヤな訳じゃねェんだからな!」
 半ば怒鳴りつけるように反論するが、翠は全く動じた風なく言ってくる。
「だったら、その嫌そうな顔は何だよ?マシなものも痛く感じられそうだ」
「う…」
 その言葉には、思わず柊一も口ごもってしまう。この時点で、柊一の負けだった。
 そんな2人のやりとりを見て、葉月は皮肉めいた笑みを浮かべる。
「へぇ、良いこと聞いたな。注射、嫌じゃなくなったって?ただ注射って言っただけで泣きわめいてたガキが」
「昔の話だろッ!?」
 過去の醜態をさらっと暴露され、柊一は思わず葉月を怒鳴りつける。だが、彼女は平然とした顔つきで笑っているだけだ。柊一も、反論の言葉が思いつかないので、葉月が何も言ってこないのを良いことにそれ以上は言わず、仏頂面で診察台の上に座った。
 思えば、この場に居合わせたのは自分でも失敗だったと思う。学校帰りに病院に寄ると言った翠の言葉を聞いて、だったら送ってやるとついてきたのだが、まさか一緒に診察室に呼ばれるとは思わなかった。今までの経験上、こういう展開になった後はロクなことがない。そして、その勘は当たっていた。
「翠ちゃんが終わったら、今度は柊ちゃんだからね?」
 言いながら、看護師である母が持ってきたのは、採血用の注射器である。それには、さすがに柊一も息を呑んだ。
「お、俺はどこも悪いとこなんかねェよ!」
 由香の言葉に、柊一は思いっきり反論する。刹那、母の顔が曇った。
「柊ちゃん、定期健診に来なかったでしょ?大丈夫だって思ってても、大きな病気してることだってあるんだから。柊ちゃん、ただでさえ風邪引きやすいのに…」
 どこか、物悲しげな表情で訴えかけてくる由香。結局、柊一には最後まで反論することが出来なかった。
 昔から苦手なのだ、この顔は。そして、力になってやりたいとか、こんな表情をしていて欲しくないと思わされてしまう。
 今回も例に漏れずそのパターンで、注射器と母の表情を見比べた結果、柊一は泣きたい気持ちを抑えながらも頷いた。
「バカだな…」
「扱いやすいんだよ」
 呆れたような翠の言葉に、葉月は苦笑で返す。柊一もそれを自覚していながら、反論できないのは悔しい。だが、散々迷惑をかけた母に、曲げたくない想いを誓ったから、それでも良いかと思えるのだ。
 もう2度と、悲しませたりしないから。そして、ありがとう。





あとがき:
子供期のネタ再びです。
最近これを書いていると楽しくて仕方がない、と(笑)
昔と今のギャップが激しいですからね。
そして、今度は由香の方をメインに。
にしても、最近こんなネタばっかりなので、そろそろ真面目な話も…書けたら良いなぁ(希望的観測)
〔2004.10.17〕