懐かしむほど、思い出があったわけじゃない。
 故郷と言われても、正直、ピンと来なかった。
 けれど、目の当たりにした、無の世界。
 あの時は、それどころじゃなかったけれど。
 今になって、こんなにも心が疼くのは、何故?


――桜、ひらひら――


 目が覚めたのは、もう昼もとうに過ぎた頃だった。
 ようやく退院できた私は、今は自室で療養している。あの江戸での戦い以来、エクソシスト達には休暇という名の療養期間が待っていた。
 何とか起き上がって、服を着替えると、私はいそいそと部屋を出た。
 教団に来て初めて、私は、生死の境を彷徨うほどの大怪我を負った。それもこれも全部あのバカ師匠のせいだけど、それは、まぁ置いておくとして。
 慣れた道を進んでいけば、すぐに辿り着いた訓練室。でも、そこには先客がいて。
「神田!」
「ちっ、やかましいのが来やがった」
 私の声に舌打ちして、神田は不機嫌そうに目を逸らす。これは、恒例の挨拶みたいなもの。私は、思わず笑って、神田の隣に座った。
 教団に来てから、神田と座禅を組むのも習慣に近いものになっていた。1人でいることもあるけれど、大概、神田とはち合わせては舌打ちされる。そして、たまに、そこにリナリーが混じるんだ。
「さっきまで、リナリー、いた?」
「あぁ」
 短い返事だけをよこして、神田は相変わらず目を閉じて座禅を続ける。私も、リナリーに用事があったわけじゃないから、それ以上は聞かなかった。
 本部から、ルベリエ長官が来ている。そのせいで、教団内がぴりぴりしていた。
 特に、リナリーは、長官に何かされたのか、ひどく怯えていた。あんなリナリー、初めて見る。
 きっと、神田なら何か知っているんだろうけど、それを聞いても、神田は答えてはくれないだろう。それに、私が聞くべきじゃないような気がした。
「で、お前は何だ?」
「え…?」
 珍しく、神田から声を掛けられて、私は思わず聞き返してた。けれど、神田は、相変わらずの姿勢のまま。私の方を向いた気配もない。
「お前も、何かあるとここへ来るだろ?」
「あぁ…」
 生返事を返して、私は訓練室の天井を見た。それもお見通しか。
「ラビと喧嘩したわけじゃないよ?」
「聞いてねぇよ」
 自分から話題を振ったくせに。そんなことを思いながら、私は、ふと思ったことを口にした。
「神田は、日本を懐かしく思ったこと、ある?」
 返事は、すぐにはなかった。黙考しているのか、答えたくないのか。
 きっと、後者に違いない。そう決め込んでいたのに、神田からは意外にも返事があった。
「俺には、懐郷などという気持ちはない」
「そっか…」
 でも、普通そうだろうな。
 自分で言ったくせに、そんなことを思った。
 日本人とは名ばかりで、実際のところ、あの国は人間が安穏と暮らせる場所なんかなかった。故郷を知らなかった私に、師匠に初めて連れて行ってもらって日本の現状を見た時は愕然としたっけ。
『これで満足か?』
 煙草をふかし、言う師匠の顔は、私の方からは仮面で見えなかった。ううん、それ以前に、何故か溢れてきた涙で、霞んで見えなかった。
 私が、黒の教団に来たのは、そのすぐ後のこと。

「何?」
 珍しく、神田が名前を呼んでくる。それに驚きつつも振り返ると、またもや珍しく、座禅をやめた神田が私を見ていた。
「そういうのは、俺じゃなくて、あのバカ兎の方にしてやったらどうだ?」
「え…?」
 不意に出てきた名前――と呼べるかはわからないけれど――に、思わずびくりと肩が震える。本当に、神田は何でもお見通しだ。
 けど、今は…。
「お、、ここにいたさ?」
 まただ。
 大袈裟な驚いた私に、笑いかけてきたのは、噂の兎さん。今は、出来れば会いたくなかった。
「何だよ、復活した途端に訓練か? もユウも熱心さ」
「おい、バカ兎。何度言わせればわかる?」
 ファーストネームで呼ばれることを極端に嫌う神田は、不機嫌さをさらに増してラビを睨む。けど、そんなことに動じないラビは、それを無視してまっすぐ私に向かってきた。
、ちょっと来るさ」
「え?」
「コムイ室長様がお呼びさ」
 私に目線を合わせるようにして言ってくるラビに、思わずどきりとさせられる。けれど、それは、同時に、胸の痛みにもなった。
「わかった、すぐ行く」
 そう答えて、私は逃げるように訓練室を後にする。あ、あとで、神田にお礼言っとかなくちゃ。
 何だかんだで、優しい神田。同じ日本人だから、と、私は勝手に思っていたけれど、そんなの、関係ないのかもしれないと、今更思う。
『俺には、懐郷などという気持ちはない』
 その言葉の真意はわからないけれど、何だか少し淋しくなった。
 こんな気持ちになるのは、私だけ?
「はい、ストーップ!」
「え…?」
 唐突に声を掛けられて、思わず立ち止まる。すると、いつの間にか、目の前にはラビがいて、私の行く手を塞いでた。
「どいてよ」
「どかねぇ」
 いつになく真剣な瞳で私を見るラビに、二の句が継げなくなってしまう。
 そのまま、硬直してしまった私の手を取って、ラビはどんどん歩いて行った。
「ちょ…っ、どこ行くの!?」
 聞いても、ラビは答えない。そのまま、連れて行かれたのは、私の部屋。
「ねぇ、室長が呼んでるんでしょ?」
「あんなん、嘘さ」
 あっさり言い放って、ラビはまた真っ直ぐ私を見つめる。いつもの、へらっとした感じじゃなく、真剣な眼差しで。
「何で、ユウなんさ?」
「え…?」
「オレは、の何?」
 言われて、つい口ごもってしまう。
 ラビのこと、ないがしろにするつもりはなかった。けれど、神田が日本人だったということと、ラビにカッコ悪いとこを見せたくなくて、あえて、あの選択をした。
 江戸が壊滅した。その事実は、後になって、私の中にのしかかってきた。
 生まれ故郷、と呼べるような記憶もない。ただ、両親が難を逃れた日本人の子孫で、私はその子供だった、という話。
 それなのに、伯爵によって、一瞬にして無に還されたその場所を、私は確かに故郷だと感じていた。
!」
 強い口調で言われて、思わずびくりと肩が震える。ラビが、本気で怒ってる。こんなとこ、初めて見た。
「…ごめん」
 私の反応を見て悪いと思ったのか、俯き加減になって、小さい声で謝るラビ。ブックマンに、あれだけ感情的になるなと教えられていたはずの彼が、私のために、こんなにも感情を露わにしてくれている。
「ッ、ラビ…ッ!」
 気付いた時には、私はラビに抱きついていた。どうして、こんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
「江戸が…っ、私の故郷が…ッ!」
「あぁ」
 ついに泣きだしてしまった私を、優しく抱きとめてくれて、けれど、それ以上はラビも何も言わなかった。ただ、嗚咽を漏らし始めた私の背中を、優しく撫でてくれるだけ。
 溢れだした想いは、もうどうしようもなくて、私はラビの優しさに甘えて、そのまま泣き続けた。
 思い出なんて、絶望した記憶しかないのに。
 改めて任務で訪れたその街は、アクマに占拠されていたものの、ところどころに、絵画の中で見た日本が見えて、嬉しくなっていた。
 神社の鳥居。桜の木々。本物を目の当たりにして、余計にきれいだと思ったんだ。特に、儚くも美しく散っていく桜は。
 それなのに…。
 崩壊は、一瞬。あの時は、体のダメージが大きすぎて、ショックを受けている暇もなかったのに、教団に帰ってきて、病室であの光景を思い出すたびに、ミランダやリナリーに気付かれないように、何度も泣いた。
…」
 呼ばれて、顔を上げれば、優しく降ってくる口付け。けれど、すぐに離れてしまって、私を見つめるラビは、自分までも苦しそうな表情をしていた。
「しんどい時は、オレに言えよ? いくらでも聞いてやるさ。それに、そんなことで幻滅しない」
「ラビ…」
「どんだけ、オレがのことすきだって思ってるんさ?」
 そう言って、ようやくラビは苦笑のような笑みを浮かべた。それから、またきつく抱きしめてくれて。
がどんだけ辛いか、理解はしてやれねぇかもしれないけど、傍にいることは出来る。そんなこと出来るやつなんか、オレ以外に必要ないさ」
「もう、ラビってば…」
 自信満々に言うラビに、思わず笑ってしまう。でも、確かにそうだ。それだけ、私にとって、ラビはかけがえのない人。
「ありがとう、ラビ」
「わかればいいんさ」
 また、そんなことを言って茶化す。けれど、その方がいつものラビらしくて、私はすごく安心した。
「今日は、気の済むまで、ここにいるから」
「うん…」
 その優しさが嬉しくて、また溢れてきた涙を隠すように、自分から、そっとラビに擦り寄った。


 懐かしさは、正直、ない。
 けれど、悲しいっていう気持ちはたくさんあって。
 それを嘆いたところでどうしようもないけれど、それでも辛くて。
 そんな時、傍にいて、また前を向く勇気をくれたのは、貴方だった。
 かけがえのないものを失ったと同時に、私は、大事なものを手に入れた。
 そんな気がした。





あとがき:
何だか、書いてるうちにだんだん長くなってしまいましたσ(^◇^;)
そして、またもや登場の神田です(笑)
今ケーブルテレビでちょうどやってるD.Gray-manのアニメが、江戸壊滅の話でして。
原作を読んだ時はスルーだったはずなのに、映像で見たからか、一瞬で消え去った江戸の町に、
何だかすごくショックを受けてしまって、そのままお話にしてみました☆
そして、徐々に明かされていく、ヒロインちゃんの設定。
こちらも小出しにしていきたいと思います(^_^*)♪
それでは、ここまでお読みくださり、ありがとうございました(>▽<)
〔2010.2.25〕
BGM by いきものがかり 『SAKURA-acoustic version-』