deceit 1つの橋
かけがえのないものが失われる瞬間を、幼い彼はまだ知らない。
いや、知らない方が良いのかもしれない、そんなことは。幼すぎる彼にそんなことを言うのは、酷だと言えよう。
だが、その時が来たら、この子はどうするというのだろうか。自分の足で歩いて行けるだろうか。それとも、自分と同じように世界に絶望してしまうだろうか。
あの時は、本当に心が壊れそうだった。
母親から送られたのは、罵詈雑言の数々。
自分の居場所を求めて作り上げたものも、警察の前で無残に散って。
身体にも心にも、一生消えない傷を背負って。
それでも。
愛しい人が傍にいてくれるなら、幼い君が笑ってくれるなら、今はまだ何も言わないでおこう。
支えていくことが出来るのだ。お前が道に迷った時は、必ず手を引いてやるから。頼ってきてくれるなら、この手を取ってやれるから…
☆
「…ちょう、課長ッ!」
机を叩く盛大な音がして、彼は我に還った。というより、夢から醒めたと言った方が正しいのかもしれない。
呼ばれ、顔を上げたのは、30代半ばの男性だ。茶髪に緑瞳で、スーツを着こなす姿は様になっている。それは、生まれつきの容姿の良さにあるのかもしれないが。
その彼に声をかけたのは、年の頃14,5歳、赤髪金瞳の少年である。どこか少女めいた可愛らしさのある顔立ちで、その顔には明らかに怒りを抑えこんだ笑顔が張り付いていた。
「き・い・て・ま・し・た・か?僕達の報告」
「あぁ、途中までは…」
椅子に沈み込んでいた身体を起こしながら、呟く。その態度に、少年のこめかみの辺りがひきつったような動きを見せた。
「じゃあ、もう1回言わせていただきますけど、先日、蔆紜区内で起こった大学生毒殺事件の…」
表情に変化を見せたわりには、彼の紡ぎ出す言葉は平静そのものである。聞いている分には、にこやかな表情でも浮かべながら言っているかのようだ。
ただし、あくまで表情を見なければ、の話である。
彼の後ろでパソコン業務に没頭している少女には、おそらく普通の報告のように聞こえただろう。だが、少年の隣に立つ人物には隠しとおせる訳もなかった。それは、その人物の顔を見れば一目瞭然である。
少年の隣にいるのは、年の頃15,6歳ほど、エメラルドグリーンの髪に青瞳で、顔立ちからは男とも女ともつかない。その人物は、疲れ半分、呆れ半分といった複雑な表情を見せていた。
「…で、被害者の体内に注入された毒素の成分から、それが毒蛇の遺伝子を持つバスタードの犯行と断定し、その毒素のDNAを被害者の友人のものと照合した結果、完全に一致し、犯人逮捕に至った、と」
「だが、捕まえてみれば、どこか引っかかる、だったな」
「はい。歯形も一致しているので、これ以上の物証はないのですが、頭を強打し、気絶させておきながら、わざわざ自分の毒で殺しています。凶器の指紋を拭き取っているというのに。何か、ただの殺人事件じゃない気がして…」
「確かにな」
「だから、被害者の彼女である女性に、もう一度話を聞いてみたいんです。今回の事件、おそらく、鍵を握るのは彼女ですから」
「鍵…?」
訝しげなその台詞に、少年の表情がまた動く。今度は、限界までに達した怒りを無理やり抑えこんでいるのがはっきり解った。
「あ〜、明香莉、ちょっと用事頼まれて」
「何ですか?翠先輩」
場の空気の気まずさに、少年の隣にいた人物が苦笑まじりに少女を呼ぶ。
年の頃14歳ほど、左右の高い位置でくくられた栗色の髪と大き目の紫瞳のおかげで、可愛らしい印象を受ける。
明香莉が席を立つが早いか、翠は彼女にメモリーチップ――最新鋭の記憶媒体――を渡した。
「ぼくも今回の事件のこと、疑問に思ってて、氷狩先生にもう1回詳しく調べてもらってるんだ。だから、その結果をもらってきてくれないかな?」
「え、だったら電話で…」
「直接聞きに来てって言われてるんだよ。でも、ぼく達、まだやらなきゃならないことがあるからさ。頼むよ」
手を合わせて頼み込むと、若干の迷いはあったようだが、明香莉はすぐに明るい笑顔で言ってきた。
「解りました。他ならぬ翠先輩の頼みなら、すぐに行って戻ってきます」
「気をつけてな」
「あ、明香莉、僕達が行けない代わりに、葉月先生によろしく言っておいて」
翠の言葉に続けて、さっきまでの表情を消し、にこやかな笑顔で少年が言う。それに明香莉が元気よく返事をし、ドアが閉められた。そのままの表情で、明香莉を見送った体勢のまま、彼は暫く手を振っていたが、
「ったく、いちいち面倒なことをさせてくれるんだから。これで良いんだろ?柊一」
翠が肩をすくめ、言うが早いか、
「ふ、ふふふふふふ…」
途端に柊一が不気味な笑い声を上げる。そして、ゆっくり踵を返し、机を思い切り叩いた。
「てめェ、ふざけンなよ!人が苦労して調べたのをめちゃめちゃ丁寧に説明してやってるっつーのに、居眠りぶっこきやがって!それでも特捜S課の課長か!?えぇ、クソ親父ッ!」
言われ、彼はぼんやりとした表情で息子を見やる。確かに、寝ている場合ではないだろう、課長としては。
ここ、特捜S課、正式名称、警視庁刑事部特別捜査スプレス課は、近年増加の一途を辿る、俗に言う超人類――遺伝子改良された人間、ジェネティックレイスや、動物遺伝子で改良された人間、バスタード――が起こす犯罪を専門に取り扱う刑事、スプレスの所属する課である。
現在、特捜S課は、課長の仁科響一警視正、東麻翠警視正、仁科柊一警視、惣波敦郎警視、夏南朱音警視、清宮明香莉警部補の6人で構成されている。
ただし、それは表向きの話だ。敦郎と朱音の2人は、柊一の得意なバスタード能力で生み出した姿で、柊一と敦郎、朱音は同一人物であり、実際所属しているのは4人である。その実情を知る者はあまりいないが。
「で、ちゃんと目ェ覚ましたんだろうな?今度寝たら叩き起こすぞ!」
かなり機嫌悪そうに柊一が言うが、全く気にした風もなく、響一は呆れたような表情で呟く。
「…相変わらず、見事な使い分けだな」
「ッ…!」
刹那、柊一の表情が怒りにひきつる。気付けば、翠は少し離れたところから2人の様子を傍観していた。
「やっぱ、たぬきの子はたぬきってか?ふざけたことぬかしやがって!」
「俺をあの女たらしと一緒にするな」
柊一の言葉に、響一は心底嫌そうな表情で返す。
2人がたいがいな言い草で言っているのは、かつて捜査一課に所属していた刑事、仁科渉のことだ。
響一にとっての父、柊一にとっても祖父のはずだが、2人共はっきり言って、彼との相性は最悪である。元刑事の彼の洞察力は2人のそれを凌駕し、その力を事件解決より身内のアラ探しに使っていたという、とんだ食わせ者だ。だから、彼らは心底渉を嫌っている。
「そんなことより、本題はどこにいったんだ?」
唐突に声が聞こえ、柊一と翠が振り返る。見れば、そこにはファイルを抱えた男性がいた。
年は響一と同じ頃、黒髪黒瞳で、人柄の良さそうな顔をしている。
実際、面倒見の良い彼は、この親子の仲裁役をよく務めている。今日も、2人の近くまで来るや、盛大なため息をついてきた。
「良い加減にしないか。お前達も本当に飽きないな。それでも…」
「スプレスか、だろ?」
男性の言葉を引き継いで、2人は同じように不敵な笑みを浮かべながら、同時に言ってくる。こういう似なくても良いところは似ているらしい。
「ところで、何の用だ?悟」
煙草に火をつけながら、響一。その隣で、柊一も同じことをしようとしていたのだが、すんでのところで父の制裁が入った。
「ってェな!このクソ親父!」
頭を抱えて柊一が怒鳴りつけるが、響一はあっさりそれを黙殺する。
そして、言葉の先を促すように、呼びかけた人物、大鎌悟の方を見る。それに気付き、彼は何事もなかったように言ってきた。
「実は、この間のホステスが絞殺された事件だが、検案した結果、超人類が絡んでいる可能性が出てきてな。捜査一課と特捜S課の合同捜査になりそうだぞ」
「マジかよ…」
悟の言葉に嘆息したのは柊一だ。まだ先の事件も完全に片付け終わっていないというのに、その上に次の事件が増えるのだ。毎度のことながら、とても良い気はしないだろう。だが、
「じゃあ、警部、早速資料を見せてもらって良いですか?」
柊一の態度とは対照的に、明るい表情を見せる人物が1人。刑事という仕事にやりがいを見出していないと出来ない表情だ。
その言葉には、悟はすんなり頷いて、ファイルを手渡す。
「え、っと、これが検案書で、こっちのが殺害現場の状況ですね」
「ちょっと待て」
悟の言いように、親子同時につっこむ。だが、彼らの言いたいことが解り、悟はすぐに切り返した。
「日頃の行いの問題だ。そんなに階級のことにこだわるのなら、それ相応のことをしてみろ」
「俺はしてるぞ。少なくとも、どこぞのバカ息子よりは、まじめに仕事している」
「仕事はな。仕事以外の日頃の行いが悪いってンだよ!」
「お前はどっちも悪いだろ?」
「あ〜き〜ら〜!」
「お前ら、いい加減にしろ!」
最後にこの場を収めたのは、悟の怒鳴り声である。それには、その場も静まりかえった。
響一と柊一が、階級が上の翠には仕事の上では上司として振る舞うのに、2人には普段と変わらない悟の態度が気に入らず、文句を言ってくるのはいつものことである。そして、その後必ずと言って良いほど親子で口論になるのだが、そのあたりにも悟の言う"日頃の行い"が含まれていることに、当の本人達は全く気付いていない。
「そういえば、柊一、さっき言いかけていたのは何だ?」
この空気を変えるために、響一が煙草の火を消しながら、思い出したように言う。すると、柊一は煙草をくわえながら父を顧みた。
それから、一瞬の沈黙。
どうやら、また殴られるのではないかと身構えていたようだが、それがないと解ると、いつもどおり睨んでくる翠の視線は無視して、煙草に火をつけて言う。
「俺の考えじゃ、おそらく、ガイシャの彼女が関わってると思うんだ。つまり、彼女が口論になった末に、ガイシャを強打した、ってな」
「それで、ガイシャの友人が彼女をかばい、わざと自分の犯行だと解る証拠を残した、と」
響一が言うと、すぐに柊一も頷いてくる。
「さっすが、解ってンじゃん。だてに年はくってねェよな」
「まだ現役の刑事なんでな。直接事件に関わることは少なくなったとはいえ、まだ勘は鈍ってなどいない」
言いながらも、息子に軽く制裁は入れておく響一である。そのやり取りを見ながら、悟と翠が苦笑していた。
「ほんとに、よく似た親子だな」
「いや、警部、それは課長に失礼ですよ。柊一の方がよっぽど素行が悪い」
「ンだと?」
悟の言葉を否定する翠の台詞に、柊一が苛立った表情を見せる。だが、そこには意外な言葉が返ってきた。
「翠、知らぬが仏だぞ?昔のこいつは柊一よりよっぽど底意地が悪…」
「悟、たいがいにしとけ」
言って、響一は再び煙草に火をつける。
柊一と翠は気付かないようだが、悟にはそのライターを勢いよく閉める仕草で解る。彼の機嫌が最高に悪いことも、その後自分がどんな目に合うのかも。ただし、それは十数年前までの話だが。
「あ、柊一、お前も目を通しておけ。もうすぐカタがつくんだろ?今抱えてるヤマ」
「ま、まぁ…」
明らかに動揺した表情で、悟。それに、柊一は曖昧に頷いてから、手渡されたファイルを開く。
「あ、柊一、ぼく、ちょっと考えたんだけど…」
彼がファイルを開くや、翠が次々にページをめくりながら言ってくる。柊一も、最初こそ面倒くさがっていたものの、今は真剣に翠の言葉を聞いていた。
そんな2人の様子を横目に見ながら、響一は紫煙を吐き出し、友人の方を睨むように見る。
「悟、余計なことを言わない方が身のためだぞ?俺も気が長くなったが、それほど許容量は大きくないからな」
「…肝に銘じておくよ」
ひきつった表情で、明後日の方向を見ながら、悟が呟く。ここ数十年でかなり落ち着きはしたが、彼は響一の本性を嫌というほど知っているのだ。
「じゃあ、俺は課に戻るから。そろそろ聞き込みに行かないと」
言いながら、彼は既に歩き出していた。おそらく、これ以上墓穴を掘らないためだろう。それがはっきりと見て取れるから面白い。
「あ、悟」
不意に呼び止めてやると、彼は大げさに肩を震わせ、一瞬躊躇したような間をおいてから、無理に作ったことをはっきりと示している笑顔で答えた。
「な、何だ?」
「奥さんによろしく」
平然と笑って言ってやると、悟は多少驚いた表情は見せたものの、そのまま頷いて捜査一課に戻っていった。
「…性悪」
「最高の褒め言葉だな」
半眼で言う息子の言葉を聞き流し、煙草の火を消して、響一は真剣な表情で柊一と翠の方を見た。
「清宮からの報告は、後でモバイルの方に転送させよう。まずは、被害者の彼女に当たってくれ。それが片付き次第、一課との合同捜査に移る」
「はい!」
勢い良く返事をし、2人は特捜S課を飛び出していく。
その姿を見送ってから、響一は誰にともなく、笑ってみせた。
大丈夫。彼は今、自分の足で歩いている。一時期は、壊れそうに脆い心を抱えていたこともあったが、側にいて、支えてくれる人物がいるから、安心して見守ることが出来る。
あれから14年の時が過ぎたけれど、どれだけの時が過ぎても、子供であることには変わりないのだ。
『俺、もうどこにも逃げないぜ。あいつがずっと側にいるって、約束してくれたから』
数年ぶりにかわしたまともな会話の最後で、明るく言ってきたその言葉を、素直に信じることが出来る。たった独りでも、自分を思ってくれる人がいれば立ち上がれることを、彼自身も知っているから。
「本当に、さすが俺の息子、だな」
誰もいなくなった室内で独りごち、響一は、再び煙草に火をつけたのだった。
あとがき:
何か無性に親子が書きたくなって、書いたネタです。思いっきり今はまってる漫画に触発されてます。
えぇ、日記の小ネタの中では、かなりひどい父親だったのですが、まぁ、あれは軽いスキンシップで。
響一さん視点のはずが、あっちこっち右往左往してますね。
ちょっと過去の回想で語りみたいな部分も混じりつつ、基本ほのぼのした感じで。
一部恐ろしい人みたいになってますが、かえるの子はかえるなんで、今どんなに落ち着いていても、親子なんです。
とにかく、今回のこの話で、今まで解りにくかった響一と悟のキャラが解るかと。
本当は父さんは息子のことを思ってるんだということもアピール。
あ、ここでははしょられてますが、もちろん、最初の子供である香織のことも大事にしています。
ただ、柊一の方は、いじめのこともあり、男の子ということもあり、姉より過度な愛情をもらってるだけで。
〔2004.4.11〕