heart この想いの彼方
息が上がっているのは自覚していた。正直、体力にはかなり自信があったのだが、それも追い付かないほどに身体が疲弊している。今までバイクや車に頼りがちだったのが災いしたのかとも思ったが、今更そんなことを言っても始まらないのも解っていた。
「…っそ!」
寄り掛かっていた壁を殴りつけて、彼は悪態をつく。年の頃14、5歳、赤髪金瞳で、まだあどけなさの残るその顔には、苛立ちの色と汗の粒が浮かんでいた。
「待ってろよ、翠!」
自分を勇気づけるためと無事を信じられるように声に出して言い、彼、仁科柊一は再び走り出した。
☆
何故こんなことになったかは、未だ理解しきっていない。ただ、始まりは数時間前の出来事にあることだけは解っていた。
『ただいま〜』
玄関の戸を開け、柊一は家の中に入る。だが、すぐに様子がおかしいことに気付いた。
『香織?』
いつもなら騒々しいほどに出迎えてくれる姉の姿がない。靴もあるから、家には入るはずなのだが…。
――まぁ、電話でもしてンのかもだし。
一度不思議に思いはしたが、それ以上は深く追求することもなく、とりあえず着替えるために自分の部屋に行く。
ただ、何となく胸騒ぎがしているような気がした。いつもと違うから、調子が狂っているせいだろうか?
いつもと違うといえば、翠の様子もおかしかった。
柊一と翠は、中学生ながら警視庁でも腕利きの刑事である。いつのまにか彼らのコンビ名として知れ渡っている"アウトレイジャー"の名も、2人だからこそ持てたし、若いながらもその力量を認められている。まぁ、2人とも無茶ばかりするからとつけられたので、決して良い意味とは言えないのだが、似た者同士の名コンビという意味では気に入っているのだ。お互いのつらい過去も理解し合い、いろんな障害を共に乗り越えて来たからこそ、2人の絆は強い。仕事では相棒として、プライベートでは親友として接してきたのだ。そんな翠の様子がおかしければ、すぐに解る。
今日の翠といえば、いつもは途中まで一緒に帰るというのに、今日に限って1人で帰ると言い出した。それ自体は別に珍しいことではない。先生に仕事を頼まれたり、刑事の仕事で休みがちになっていた学校の出席点を補うために課題をやらなければならない時は、別々に帰ったりする。ただ、今回は理由が理由だっただけに不思議に思ったのだ。
『葉月のとこ寄って行く?』
葉月とは、翠の主治医だ。幼い頃、父親が関わっていたヒトゲノム解析計画の第2段階の実験でラジカルから超人類――遺伝子改良を受けた人間、ジェネティックレイスや、動物遺伝子を組み込まれたバスタードをさす――に無理に変えられた副作用で性別をなくした翠は、定期的に葉月の検診を受けている。
『でも、検診はいつも休みの日だろ?大掛かりになるから、患者の少ない時にしてるっつったのはお前じゃんか』
『急遽決まったんだよ。じゃあ、ぼく、急ぐから』
『あ、おい、翠!』
言うが早いか、翠はさっさと教室を飛び出していった。
普通に聞けば、翠の理由は正当だ。目線さえ合わせていれば。
自覚しているのかいないのか、翠は嘘をつく時には決して柊一と目をあわさない。いつも完璧さと確実性を求める翠がめったにしないミスだ。
――俺に嘘をつかなきゃならないことがあるってのか…?
翠のことを思い出していた柊一は、ふと着替えていた手を止めた。今まで似たようなことはあったが、それはだいたい柊一を心配させまいとする嘘だ。だから、葉月からの呼び出しと聞いて、あの時は身体のことで何かあったのかと思った。後で葉月から聞き出せば良いと。
だが、今はそうは思えなくなっていた。胸の中に生まれた胸騒ぎがそう感じさせる。自分の知らないところで何かコトが進んでいるような、嫌な感覚でもある。
ただ、確証がないのも事実だ。とりあえずは確認しようとして、その感覚を押し込めて着替えをすませると、ベッドの上に放り投げていた鞄の中から携帯電話を取り出そうとして、手を伸ばす。と、
『何だ?この紙』
先刻は気付かなかったが、よく見てみると、ベッドの上に置かれた洗濯物の中に紙がはさまっているのに気付く。そして、そこには驚くべき内容が刻み込まれていた。
〈あなたの大切な方をお預かりします〉
しかも、ご丁寧に、そこには血痕までつけられていた。血糊などではなく、本物の。
『まさか…!?』
嫌な予感を覚えて、柊一は自分の部屋を飛び出した。そういえば、姉の声が聞こえない。電話をしていたところで、気配くらいするはずなのに。
『香織ッ!』
隣の姉の部屋から片っ端に家の中を見ていくが、やはり香織の姿はなかった。
『マジかよ…』
未だに信じられないが、状況が真実を物語っていた。それに、柊一も父親も刑事だ。香織がさらわれても不思議がないくらいの理由はある。
――いや、もしかしたら近所にいるかもだし、とりあえず探しに行くか。
思い立つが早いか、靴をはき、玄関の戸に手をかけるが、
ゴンッ☆
何とも威勢の良い音がしたと思えば、顔面に激痛が走り、柊一はその場にうずくまった。
『何やってんの?あんた』
と、不意に上から呆れたような声が降ってくる。確認するまでもなく、よく聞き慣れた声だった。
『香織!?てめェ、今までどこ行ってたんだよ!』
ドアに顔をぶつけた腹いせも含めて怒鳴り付けるが、彼女はごく自然に答えてきた。
『どこって、学校に決まってるでしょ?いつもいつもあんたより早いって訳じゃないんだから』
言われて、柊一もすぐに納得した。よく考えれば、確かに姉の通学靴がなかった。
『で、柊一はどこ行くつもりだったの?そんなに慌てて』
『それは…』
逆に聞き返され、柊一は例の紙のことを姉に話した。
大体のことをかいつまんで話し終えた後、香織は楽しげに言ってきた。
『だから私のこと心配してくれたの?』
『バ…ッ!ちげーよ!』
その言葉に、柊一は赤い顔で反論する。もちろん、説得力などあったものでもなかったが。
『つーか、ンなつまんねェ冗談言ってる場合かよ!だったら、誰のことだってンだ?』
照れ隠しのために話題を変え――あと、彼の言葉にすごい形相で睨んでくる姉を無視して――、考え込む。家の中の、しかも洗濯物の間から出て来たから、てっきり姉のことだと思ったのだが…。
『そうやって考え込んでる場合?ヤバいんじゃないの?』
『そんなの、解ってるけど…』
香織の指摘はもっともだが、焦れば焦るほど考えがまとまらない。冷静になりたくとも、大事な人がさらわれたとなれば落ち着いてなどいられない。
『ねぇ、柊一、そんなに考えなくても、あんたの大事な人なんて1人しかいないんじゃない?』
『え…?』
当然のように姉に言われ、柊一は思わず聞き返す。だが、一瞬後にはその言葉を理解した。余裕が少し戻ったためか、笑みすら浮かべることができる。
『…だな』
頷いてみせると、柊一は2階に駆け上がり、携帯電話を取り出し、その相手に電話した。
――頼む、出てくれ!
祈るような想いで相手が出てくれるのを待つが、電話は空しく呼び出し音を響かせているだけだ。
『ッ、くっそ…!』
悪態をつくと、柊一は必要最低限のものだけ揃えて玄関に向かった。だが、その途中で香織に止められる。
『どこ行くの?』
『決まってンだろ!あいつ探しに行く』
『ちょっ…!柊一!?』
姉の制止も聞こえないふりをして、柊一は葉月の元に向かったのだ。
そして、着いてみれば翠はおろか、葉月や、ほとんど彼女と一緒にいるはずの母、由香の姿まで見当たらなかった。詳しく聞いてみて、葉月と由香は別の患者の診察をしているということだったが、結局翠の行方は解らないままだった。
それから、翠の行きそうな場所を思いつく限りあげて、片っ端から電話をかけ、それらが全滅すると、今度は電話確認できなかった場所を探しに行った。
☆
それから数時間後、つまり今、最後の目的地に向かっているというわけだ。
家にはバイクも車もなくて、できるだけ早く進もうと自転車を持ち出して来たのだが、それでも遅く感じられ、かなりの勢いでこいだのと、散在する20ヶ所を休みなく回ったせいか、息をするのがつらくなり始めていた。しかも、バスタードの高い身体能力についてこれなかったのか、自転車が使いものにならなくなり、走らなければならなくなったから、余計に体力が削られるのだ。
「ったく、どこ行ったんだよ…」
最悪の状況に、思わず口に出しながら悪態をつくが、もちろん誰も答えてなどくれなかった。だが、翠の無事を信じられなくなった訳ではない。「どんな状況でも絶対に諦めちゃだめだよ。刑事が諦めたら、被害者を救えなくなるんだから」――そう言ったのは、他ならぬ翠だった。
だからこそ、可能性が残っている限り、翠は無事だと信じたい。
☆
最後に辿り着いたのは翠の家だった。ここだけは、ありえないと思って除外した場所である。家にいるなら、さっき電話した時に出るはずだし、もし柊一が電話した後に帰って来たのだとしても、着信履歴を見てかけ直すはずだ。それがないとなると、家にいないと考えるのが妥当なのだが、手掛かりがあるかもしれない。そう信じ、柊一は最近では珍しくなった木製の扉を開けた。
中に入ってみても、普段と変わった様子はない。伝統的な日本家屋に、風情のある庭園がその存在感を誇示している。
家には鍵がかかっていなかった。そのことを不審に思いながら、まず玄関を見る。すると、翠の靴が綺麗に並べられてあった。それ以外の靴はない。嫌な予感が頭をよぎった。
――どうする…?
ここまできて、多少の焦りを感じながら自問する。
学校帰りですぐに来たから、武器らしいものは持っていない。もし、本当に翠が何者かに捕まっていて、それが単数だとしたらどうにでもなるが、複数で、しかも翠を人質に取られれば、助け出せる確証はない。
――でも…!
考える前に、自分の中で答えはとっくに出ていた。助けられるかどうかではない。例え自分がどうなったとしても助ける、だ。
覚悟を決めれば、行動を起こすのは訳がなかった。しかも、何度か遊びに来ているから、その構造もよく解っている。死角になりそうな場所も、逃げ込めそうな場所も。
翠が捕まるとしたら、逮捕術で捕まえられない程の人数、3人以上と考えるのが妥当だ。それだけの人数が集まれて、しかも侵入している様が目撃されにくい場所といえば、
――応接間、か…?
問題の部屋は、もう眼前に迫っていた。少し遠くから様子をうかがってみると、案の定人の気配がする。軽く呼吸を整えて覚悟を決め、障子を開けようとした瞬間、
「うわぁッ!」
「翠ッ!?」
叫び声が聞こえ、勢いのまま障子を開けた刹那、翠がいきなり倒れ込んでくる。受け止めてやるつもりが咄嗟の反応に対応できず、そのままもつれあうようにして倒れた。
「ってェ…」
思い切り打った頭をさすりながら呟くが、翠の姿が目に入り、痛みなど忘れてしまっていた。
「…大丈夫か?翠」
「うん…」
何とか身体を起こしながら聞いてみると、翠はそのままの状態で曖昧ながら返事をする。どうやら、目を回している様子だが、怪我はしていないようだ。
「良かった、無事だったか…」
「え…?」
安堵して、胸中で言ったことを口にも出してしまいながら、思わず翠を抱きしめる。それには翠も驚いた声をあげていたが、そんなこと気にしていられなかった。翠が少し大人しいのを良いことに、もっと引き寄せる。翠の無事を確かめるように。だが、
「お〜い、いつまで抱き合ってンだ?」
「ッ…!」
どこからともなくからかうような声が聞こえ、柊一は慌てて翠から手を離す。そこには、よく見知った人物、高斗が立っていた。
「何でお前が翠の家に…ッ!?」
「誕生日、おめでとう!」
柊一の言葉は、破裂音に遮られた。一斉にその場にいた全員が声を上げ、クラッカーを鳴らす。だが、柊一には今の状況をすぐに理解できなかった。とりあえず、翠が鳴らしたクラッカーの音にやられた耳を軽く押さえ、頭に乗った紙を取り払いながら、静かすぎる声音で聞く。
「…どういうことか、説明してくれるよな?」
「見たままだけど?飾り付けしてて、翠くんがバランス崩して倒れそうになってるとこにあんたが入ってきて、助かった、と」
答えたのは香織である。それが、柊一の怒りを倍増させた。
「お前までグルだったのかよ!?」
思わず語気荒く叫ぶが、香織は平然と言い返した。
「私、あんたの味方だって言ったつもりはないけど?」
「て・め・ェは〜ッ!」
その物言いに、思わず拳を固く握る柊一だったが、
「そういや、柊一、無事だったか、とか言ってたけど、どういう意味?」
翠に突っ込まれ、今までの怒りがどこかに吹っ飛んでしまっていた。別に、脅迫めいた紙が家にあったから心配した、ということは隠す必要もない。問題はその後とった行動だ。
「思わず泣きつきたくなるくらい心配した?」
「な…ッ!?」
皮肉めいた表情で翠につっこまれ、柊一は何も言えなくなる。否定したかったのだが、それは事実だった。
「じゃあ、わざわざ指先切ってまで血をつけた効果はありすぎたわけだ。時間稼ぎにはならなかったけど」
「そーだよッ!」
楽しげな翠に言われ、柊一は諦めて認めながら応接間の中に入り、座る。だが、いつものように追い撃ちがなくて不審に思っていると、翠は柊一の隣に座って笑顔を見せた。
「ありがとう、柊一」
「ッ!」
意地っ張りな翠らしからぬ素直な言葉とその笑顔に、柊一は思わず言葉を詰まらせる。頬が紅潮していることは自覚していたが、何とか平静を装おうとして言葉を返そうとするも、それすら曖昧なものになってしまいそうでやめた。
実はその後ろで、香織や高斗が懸命に笑いを堪えたりしていたのだが、それにすら気付けないほどに余裕をなくしていた。ただ、翠にも2人が笑っている理由が解らなかったのだが。
「じゃあ、始めようか?誕生日会。つっても、こんだけしかいねェけどな」
まだ少し笑っている高斗に言われ、香織も笑うのをやめ、翠の肩に手を置きながら言う。
「でもね、ちゃんと料理は豪華でしょ?翠くんがあんたのために一生懸命作ったんだから」
「か、香織さんッ!」
その言葉にはさすがに翠も慌てた様子で止めようとする。だが、時既に遅く、柊一は目の前の料理を見ながら言った。
「俺の好きなメニュー、知ってたんだ?」
「そりゃあ、3年近く側にいたんだから、嫌でも解るよ」
半ば呟くような言葉に、翠は拗ねたような口調で返す。少し頬が赤く見えるのは、香織にからかわれたせいばかりではないだろう。
――うわぁ、めっちゃ嬉しいかも…。
翠が料理を作ってくれたこともそうだが、自分の好きなものを知ってくれていたことに、少なからず喜びが湧いてくる。だが、それを素直に口にするのは恥ずかしくて、照れ隠しのつもりでついいつものような憎まれ口をたたいてしまう。
「味付け、自分に合わせて甘くなってるとか言わねェだろうな?」
「当たり前だろ?甘いの苦手なの知ってるんだから」
案の定、翠は心外だと言いたげな顔で言ってくる。今日ぐらい素直になってやりたいところだが、香織達がいる手前、からかいの種になるようなことはしたくない。礼なら、あとでいくらでも言える。そう思って、料理に手をつけようとしたが、
「またそんなかわいくないこと言って。翠くんの作った料理、好きなくせに」
「え…?」
香織の言葉に、翠が怪訝な声を出すのと柊一が吹き出すのはほぼ同時だった。そのまま、柊一は咳込み、翠はきょとんとした顔を柊一に向ける。
「それ、ほんと?」
聞かれた柊一は、それには答えず、苦しげな表情のまま姉を睨む。
「てめェは余計なこと喋ンじゃねェ!」
「良いでしょ?ほんとのことなんだから!」
「だからってなぁ…!」
そのまま誕生会そっちのけで舌戦を始めようとしていた2人だったが、唐突に吹き出す声が聞こえ、静止する。見れば、翠と高斗が笑っていた。
「似た者夫婦とはよく言うが、お前らの場合は似た者姉弟だな」
「誰がだッ!」「誰がよッ!」
高斗の言葉に反論したのも同時で、それには翠も声をあげて笑った。
「何はともあれ、柊一の誕生会、始めようか」
「そうだよ。食べて、柊一」
高斗と翠に言われ、柊一もようやく笑顔を見せると、目の前の料理に向かった。
「じゃあ、せっかくだし、いただくとしますか」
「うん、どうぞ」
翠の言葉に、柊一はさっそく目の前のコロッケに手をつける。
そこからは、4人で料理を食べたり思い出話をしたりした。普段から一緒にいることが多い4人だけに、少数のパーティでも充分だった。
だが、楽しいだけに、時間が経つのも早い。学校終わりで始めたのと準備に時間がかかったのとで、一通り料理を食べ終わる頃には陽が沈みかけていた。
「そろそろ片付けよっか?」
「そうだな」
香織の言葉に頷いて、高斗が席を立とうとする。そこで、柊一もようやく時間に気付いた。
「あ、じゃあ俺も…」
「良いから、柊一は座ってて」
先に片付け始めた姉達の後を追おうとした柊一だったが、言葉の途中で翠に制される。結局、簡単に机の上を片付けさせてもらっただけで、洗いものは全て任せることになった。
「つーか、俺、1人で暇じゃんか」
翠が食器を持って行ったのを最後に誰もいなくなった部屋で、柊一は思わず独りごちた。だが、それが主役を大事にしてのことで、決して悪気がないのは解っているから怒る気にもなれず、柊一は何気なく外に出た。
目の前には、相変わらず手入れの行き届いた日本庭園が広がっている。どれだけ技術革新が進んでも、決して失われることのない庭園は、変わらない美しさを持っていて、だからこそ魅入られるものがあるのだと思う。自然とはそういうものだろう。
――そういや、前に翠も同じようなこと言ってたっけな。
緑は強くて綺麗だから結構好きなんだと、だから自分の名前も自然の緑からきているものだと良いなぁと、どこか悲しげに笑いながら。
翠は知らないのだ。自分の性別はおろか、自分の名前の由来も。全ての鍵を握るのは、失踪した翠の父親だけだ。
正直、そんな翠と自分は似ていると思った。心に自分1人では抱えきれない傷を持って、今まで苦しみやつらさを他人と共有しようとは思わなかった。
だが、2人が出会って、始めこそは反発し合っていたが、次第にお互いがお互いの理解者になっていた。完全には癒すことが出来ないかもしれない傷も、2人でなら少しずつ治していける気がして。口にこそ出さないが、柊一も翠もお互いのことを信じきっている。親友や仕事の相棒なんて言葉では片付けられない。お互いが欠くことの出来ない必要な存在なのだ。今翠を失えばどうなるか、それを今日は嫌というほど実感した。だが、それは翠が思っているようなものとは完全に違うだろう。柊一にとって翠は…。
「何やってんの?こんなとこで」
「うわぁ!」
考えごとをしていた時にいきなり声をかけられ、柊一は不覚にも頓狂な声を上げていた。しかも、声をかけてきたのが今まさに考えていた人物ならなおさら驚く。
「お前、片付けは?」
何とか平静を取り戻し、何か突っ込まれる前にこっちから話題をふる。すると、翠は苦笑まじりに言ってきた。
「追い返されちゃったよ。あとはやっておくから、主役を1人にしないであげてってね」
「へぇ…」
曖昧な返事だけして、柊一はその言葉を言った時の香織と高斗の姿を思い浮かべてみた。
翠の言いようでは柊一のためを思っての発言のように聞こえるかもしれないが、実際は見せかけの優しげな笑顔だけで、内心ではほくそ笑んでいたに違いない。柊一の気持ちを知っていて、からかっているのだ。一瞬、だからこそ2人きりにしてくれたのかとも思ったが、あの2人に限ってそれはないだろう。絶対楽しんでいるに違いない。
そうやって1人で納得していると、
「どうかした?」
再び翠に聞かれるが、今度は言葉も出なかった。柊一の顔を心配げに覗きこんでいる翠の仕種がそうさせるのだ。こんな状況になっても理性で自分の想いを抑えるのには慣れてしまっていたが、さすがに驚いた様子も見せずに平静を装うのはまだ難しかった。
「いや、何でもないよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
とりあえず無理矢理笑顔を作って言ってみせるが、翠はまだ怪訝な表情で聞いてくる。それでも懸命に頷いてみせると、納得させることができたのか、翠もそれ以上突っ込むことはなかった。
ほんの少しの間、静寂が流れる。話したいことがないわけではないはずなのに、言葉が繋がっていかなかった。だが、不思議とそんな間も苦痛には感じなかった。言葉以外にも伝える手段はあると思うから。
その静寂を先に破ったのは翠だった。夕日に照らされた瞳が、わずかに揺らめく。
「ねぇ、柊一」
「ん?」
「上がってみない?」
言って、翠が指差したのは家の屋根だった。無邪気なその笑顔は、いつも大人びた雰囲気を持つ翠とは対照的な、子供っぽさを見せていた。
「上に何かあンの?」
「来れば解るって」
言うが早いか、翠は軽く跳躍して屋根に上がってしまう。そして、柊一を急かすように手招きしてみせた。
「しゃーねェな、付き合うか」
苦笑して独りごちると、柊一も屋根に上がる。翠は、既に屋根の上に座っていた。
「こういう時は超人類で良かったって思うよね?屋根に上るのもはしごいらずだし」
「翠…」
言って、笑ってみせる翠の言葉に、柊一は何も言うことが出来なかった。
確かに、超人類は並外れた運動神経を持ち、それ故、得をすることも多い。柊一自身、バスタードであることを一時期嫌悪していたが、それでも持ち前の運動神経のおかげで救われたことは多々ある。
だが、それは生まれつき超人類の人間の言葉だ。翠の場合、元々超人類に生まれついたわけではない。しかも、性別も、実験前の記憶もなくし、不自由な身体になって、なのに良かったなどという台詞がどこから出てくるというのだろう。
「強いな、お前は」
「え…?」
思わず思ったことを口に出してしまいながら、柊一はまっすぐに翠を見た。
初めて出会った時から、翠の精神的な強さには気付いていた。だからこそ、初めは嫌いだったのだ。翠の姿を見るたび、自分の弱さがはっきりと見えてくるようで。
だが、翠は少し寂しげな笑みを見せ、首を振った。
「強くなんかないよ、ぼくは。誰かに支えてもらわなきゃ独りで立つことも出来ない」
言い終わった時、翠の表情から笑顔が消えていた。恐いくらい真剣な瞳で正面を見据えている。
「自分を騙し続けてるんだ。それが、ぼくの中の苦しさに耐えぬく手段だった。ぼくはぼくだから、それで良いんだって、何度も心の中で唱えてた。誰も、本当のことなんか知らないから」
言葉を続けていくと、次第に翠の顔が自嘲的なものに変わっていく。不安定な心――それは、柊一が翠の強さの次に見つけた、翠の本当の姿だった。今の表情の変化のように、翠の心もなかなか定まらない。だから身体に変調をきたすのだと葉月から聞いたことがあった。
――だから俺は、こいつを…
気付いた時には、翠を抱きしめてやろうとしていた。だが、その手はすぐに戻される。翠なりに、自分の中にある想いと戦っているのだ。そこに変な横槍を入れたくない。その行為が翠の心を余計傷つける。何より、今抱きしめてしまえば抑制がきかなくなる気がした。そのまま、今まで翠だけには隠し通してきた想いが全て溢れてしまいそうで。
「ゴメン、こんな暗い話、誕生日にするべきじゃなかったな」
「いや、話振ったの俺だし、聞けて良かった」
言ってみせると、翠もようやく笑顔を見せ、頷いた。心のわだかまりを話せて、少しすっきりしたのかもしれない。
「あ!」
「え…?」
先刻までの空気を一気に吹っ飛ばすような声を上げて、翠はしまったというような表情を作る。内心、その百面相のような表情の変化に感心していた柊一だったが、翠の言葉で我に還る。
「うわ、もうちょっとで目的忘れるとこだった!見て、柊一!」
言って、指差したのは自分の正面だ。つられて柊一が振り返ると、ようやく屋根に上ろうと言った翠の言葉の意味が理解できた。
「うわぁ…」
「綺麗だろ?」
自分のことのように自慢げに言う翠の言葉どおり、振り返った柊一の目に飛び込んできたのは、沈みゆく西日だった。その色はオレンジというよりはほとんど赤に近くて、空を包み込んでいた。
「ぼくだけの秘密の場所だよ。特別柊一には教えてあげるんだからな」
「そりゃどうも」
子供じみた翠の言葉に苦笑で返して、柊一は翠の隣に座り、空を眺めた。こんな風に、夕焼け空を見たことがあっただろうか。改めてみる空は、翠の言葉どおり、確かに美しかった。
「にしても、久しぶりに来たっていうのに、やっぱり空って変わらないものなんだな。ずっと、綺麗なままだ」
「久しぶり?」
独りごちるような翠の言葉に、気になって聞いてみる。すると、翠は、頷いてみせてから、懐かしそうに言った。
「昔さ、よく屋根に上ったんだ。夕陽が見たくて、ただそれだけで」
「何でまた夕陽なんだ?」
何となく、気になって聞いてみると、翠はわずかに表情を曇らせてうつむく。聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと思い、柊一は慌てて話題を変えようとしたのだが、
「…母さんがね、好きだったんだ。これだけは何か覚えてた。顔すら思い出せないのに」
「……」
笑ってこそいたが、翠の言葉は重々しいものだった。記憶をなくしてしまったことで、翠が実験を受ける以前に事故で亡くなったという母親との思い出も同時に失わせることになったのだ。自嘲的な台詞が、そのつらさを物語っているように感じた。
その言葉に柊一が何も言えないでいると、翠が言葉を続けてきた。
「母さん、呪文みたいに言うんだ。夕陽の赤は優しい色だって。暖かくて、ぼく達のことを護ってくれてる、そんな色だって。それ聞いててさ、夕陽は母さんの色だって思うようになったんだ。だから、ここにいたら、母さんにこの想いが届くような気がして」
「そっか…」
頷いてみせてから、柊一はもう一度夕陽に目を移した。
今まで、夕陽を翠のように見たことはなかった。赤は血の色、そして、自分の髪の色も…。どうしてもそういう風にしか考えられなかった。
「柊一も、同じ色だよ?」
「え…?」
唐突に翠に言われ、彼は思わず聞き返した。すると、翠は笑顔を見せて言ってくる。
「え、って、柊一の髪の色だよ。ぼくを護ってくれてる、夕陽みたいな赤」
「バーカ、何言ってンだよ」
その言葉に、柊一は照れくさくなって憎まれ口を叩いてしまうが、次の瞬間には思わず苦笑しながら素直な言葉を口にした。
「俺がお前を?逆だろ?護られてるのは俺の方だ」
「え…?」
言ってやると、翠は案の定きょとんとした表情で聞き返してくる。だが、柊一は構わず続けた。
「お前がいなきゃ、俺はつまんないことにふてくされたままの、ただの子供(ガキ)だった。でも、翠が側にいてくれたから、俺は変われた。お前が護ってンだよ、俺の心を」
「ぼくだって一緒だよ」
笑顔を見せ、一度言葉を切ってから、翠は少しだけうつむく。だが、すぐに顔を上げると、まっすぐ柊一の方を見て言った。
「発作が起きた時に助けてくれたのも、美咲さんや有哉さんが亡くなった時支えになってくれたのも、ぼくの苦しみを解ってくれるのも、全部柊一じゃないか。だから、ぼくはお前に恩返しがしたいんだ」
「翠…」
あまり口にすることのない、翠の素直な言葉が嬉しくて、柊一は何も言えなくなる。嘘のない、心からの言葉であることは、台詞以上に表情で解る。上目遣いで少し笑って見せるのが照れくさい証拠だった。
暫く黙ったまま翠を見ていた柊一だったが、翠の方が沈黙に耐えられなくなったのか、そのままの表情で聞いてくる。
「恩返し、出来てるかな?」
「十分だよ。ありがとな」
言ってやると、ようやく翠は表情を崩す。
「お礼を言うのはぼくの方だよ。これからも側にいてくれる?」
笑って、差し出してきた翠の手を強く握り返し、柊一はいたずらっ子のような笑みを浮かべてみせる。
「当たり前だろ?イヤだっつっても、離れてやんねェから覚悟しろよ?」
「願ってもないことだよ、それ」
柊一の物言いが面白かったのか、翠は吹き出して笑い出す。つられて柊一も一緒に笑っていたのだが、不意に笑うのをやめ、まっすぐ翠の目を見る。
翠とずっと一緒にいたい、その想いが邪魔して、今まで口に出来なかった言葉。今なら、それを口に出しても良い気がする。何となく、そう思っていた。
翠も柊一の変化に気がついたのか、笑うのをやめ、きょとんとした表情で柊一を見てくる。どうかしたの?と瞳が語っていた。
「…翠」
「何?」
聞いてきた言葉は、いつも通り無邪気で、何故か安心感を覚える。だが、翠の瞳がだんだん不安の方へと移ろいでゆくのを感じ、柊一は笑顔を見せてから言った。
「すきだぜ」
「え…?」
言った瞬間、翠は驚いたような表情を浮かべる。だが、それだけで何も言ってはこなかった。おそらく、言葉の真意をはかりかねているのだろう。
この言葉に込められた本当の意味を、翠が理解するとは思えない。それでも、伝えておきたかった。いつか届くと、信じることができるから。
「俺の弱みとか、人にあんま知られたくないこととか、全部知ってンのはお前だけだから。だから、側にいろよ?俺は、お前がどんなに変わっても、お前のことすきでいるから」
「…ありがとう、柊一。約束するから。絶対、側にいるって。そしたら…」
「翠くん、どこにいるの?」
その言葉の最後は、香織の声に消されてしまった。だが、聞き返さなくても解る。翠の表情で、微かに聞こえた言葉の信憑性がわいてくる。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「あぁ」
柊一からすぐ目をそらし、言い終わるが早いか、翠は庭に下りていく。だが、足音が家の中に消える前に、下から声が聞こえた。
「ねぇ、柊一」
「ん?」
答えて、下を覗き込むと、翠が何かを投げてくる。それを危なげなく受け取るのを見ると、翠は笑顔を見せた。
「それ、誕生日プレゼント。気に入るかは解んないけど、もらってよ」
「サンキュ」
その言葉に笑顔を見せて礼を言うと、翠は家の中に入っていく。それを見送ってから柊一は包みを開けた。
「これ…」
中から出てきたのは、金色のピアスだった。どうやら、随分前にした約束を覚えていたらしい。
お互い、身につけるものをプレゼントしよう。そう最初に言い出したのは柊一だった。
以前アメリカに留学していた時、お互い口にはしなかったものの、離れてお互いの大事さを実感した。だから、また離れることがあっても、互いの想いを思い出せるように、身につけるものを翠の誕生日に贈ってみたのだ。その時、翠が自分も身につけるものを贈ると言い出した。そして、今回の誕生日にくれたのがピアスだった。
側にいることで護り続ける、それはこの贈り物にも現れているのかもしれない。
「想い続けるから。お前に性別が戻るまでは、少なくとも、今のまま…」
折角のプレゼントをしてみながら、柊一は独りごち、先刻の翠の言葉を思い出した。
『そしたら、いつだって、ぼくは柊一のこと、想えるから』
言った翠の表情は、夕日に照らされて赤く、どんな約束よりも嬉しいものを与えてくれた。
この想いの彼方に見えるものが何なのか、今はまだ見えない。でも、いつだって支えてくれる翠の言葉が、決して不安にはさせない。この夕陽のように暖かく見守ってくれる、翠が側にいてくれるなら。
あとがき:
柊一の誕生日記念、のつもりがかなり遅くなってしまいましたね。
でも、その分長めの話を。
ただ、主人公、序盤はほとんど良い思いはしてませんけどね(笑)
良いんです、彼は生きが良いくらいで。
最後にはちゃんと良い思いもしてもらってますしね。
そんな感じで、今更ですが、誕生日おめでとうでした。
〔2004.11.11〕