incense ありがとうを貴女に
淡いピンク色をした花が散り、葉桜へと姿を変え、徐々に夏へと向かい始める4月下旬。それでも、まだ微かに肌寒いか、という日もある。
5年前も、ちょうどこんな陽気だった。晴れてはいるが、まるで中休みのように、それまでの暑さから一変した、涼しい気候。
木陰にある水汲み場で桶に水を汲んでいた人物は、そんなことを考えながら、身体を起こし、木漏れ日の眩しさに目を細めた。
年の頃15、6歳程、エメラルドグリーンの髪に青瞳で、その顔立ちからは性別がはっきりしない。服装もどちらとも言えず、今は黒い服で統一してある。
その人物は、桶を持つと、まっすぐ続く道を歩いた。その歩みはどこか重く、表情も少し暗い。
ここは、霊園墓地である。都内でも少し高台にあるために、見晴らしも良く、緑も多い。立地条件としては、とても良いところだと思う。ただ、ここに眠っている人物は…。
不意に歩みを止め、わずかに唇を噛み締めながら、その人物は道を曲がり、暫く歩いて、一つの墓石の前で足を止めた。そして、軽く深呼吸し、頭を下げてから、苦笑じみた笑みを見せる。
「こんにちは、美咲さん。『翠は、あたしが死んでもマメに墓掃除に来てくれるよな?』とか言うから、ちゃんと綺麗にしてるんだからね」
言いながら、翠は桶を地面に下ろし、タオルを水に浸す。ひんやりした水の冷たさが、今は痛いほどに感じられた。
あの時は、彼女らしからぬ発言に、どうしようもないくらいの動揺と驚きを覚えていた。それが、まさか現実のものになろうとは、つゆほどにも思わずに。
実際、彼女自身も冗談のつもりだったに違いない。それは、その時の彼女の明るい笑顔を見ていれば、とても本気だったとは思えない。そう、信じたいから…。
『やっぱさ、式場は広いとこが良いよね?』
唐突に聞こえてきた声に、翠は小首を傾げた。彼女が何を言い出したかは解らないが、少し深刻そうな表情を浮かべていたので、ドアの前に立ったまま動けなくなる。
翠から少し離れたところに、その女性はいた。年の頃は21歳ほど、黒髪紫瞳で、いつ見ても彼女をかっこいいと思っていた。翠にとって、憧れの人物なのだ。
その隣には、彼女よりひとつ上くらいの年で、青髪紫瞳の青年が、女性同様、難しい表情を浮かべていた。
『あぁ、うちのことやったら気にせんくてもえぇで。親に黙って家出てったような奴に出す旅費はない!て怒鳴られたとこやし。美咲の好きなとこにしたらえぇ』
『そういうわけにはいかないよ。それに、そんなこと言ってても、息子には違いないんだから、有哉、あんたちゃんと知らせてよ?』
『う…まぁ、お前がそう言うんやったら』
美咲の言葉に曖昧な返事をしてから、青年、有哉は、軽く天井を見上げた。
『あとの問題は、刑事続けられるかやなぁ…』
『誰が?』
『お前が』
独りごちるような有哉の言葉に美咲が聞き返すと、彼は迷うことなく即答してくる。
それから一瞬の間をおいて、美咲が怒鳴り声を上げた。
『何であたしが刑事やめなくちゃいけないわけ!?冗談も休み休み言えっての!刑事やめるくらいなら死んだ方がマシだね!』
『え!?美咲姉ちゃん、死んじゃうの!?』
『うわぁッ!?』
驚いた翠が声を上げるが、驚いたのは有哉と美咲の方だった。どうやら、翠の存在に気付いていなかったらしい。
『美咲姉ちゃん、死んじゃヤだよ!だって、式場ってお葬式をするとこでしょ!?』
『え…?』
今にも泣き出しそうな表情を作って翠が言うと、有哉も美咲も怪訝な表情を浮かべる。だが、すぐに意味を理解して吹き出した。
『翠、別に式場イコール葬式場じゃないって。ほら、お前もやったろ?入学式。あれも式場って言うしさ』
『ほら、卒業式する体育館も式場になるやん?』
『あと、結婚式の会場も、ね』
美咲と有哉の言葉に続いて、別の少女の声がする。見れば、ドアのところに意味ありげな笑みを浮かべた少女が立っていた。年の頃は17歳ほど、ブロンドの髪に緑瞳で、鋭利な刃物のような美しさを持つ。
その彼女は、何か物珍しいものでも見るような目で2人を見てから言ってくる。
『とうとう腹くくったの?おめでとう』
『倫子、お前、素直に祝福する気ィないんか?』
彼女の言葉に、半眼でつっこむ有哉だったが、倫子はそれをあっさり黙殺し、よく解っていないような表情を浮かべている翠に目を向ける。
『翠くん、大丈夫よ。美咲は死ぬ訳じゃないから。まぁ、死んだとしても、あたしは絶対に墓参りに行ってあげないけど』
『り〜ん〜こ〜!』
さわやかな笑みを浮かべて言ってくる倫子の言葉を聞くや、美咲が拳を固く握って言ってくる。だが、倫子が平然と自分の席に座るのを見、ため息をついてから、彼女は翠に笑顔を向けた。
『翠は倫子と違って、あたしが死んでも墓参りに来てマメに墓掃除してくれるよな?』
『ぼくもやだ』
即答して、翠はギュッと拳を握る。唇を噛みしめて、必死につらい感情を押し込めた。
『美咲姉ちゃんは死なないもん。だから、お墓参りなんか行かない。絶対に、行かないんだからぁ…』
『翠…』
結局、最後には泣き出してしまった翠を、美咲は優しく引き寄せる。すると、翠も母親にすがる子供のように彼女に抱きついた。
『こんなようさんお願いされてもたら、美咲、もう刑事やめられへんなぁ?』
『ほんとだよ…』
倫子の方も見ながら、意味ありげな笑みを浮かべて、有哉。ただ、視線を向けられた本人は何事もなかったような表情を浮かべていたが。
そんなやりとりを見ながら、美咲は翠の頭をなでてやり、苦笑した。
『ほら、翠、いつまで泣いてンの?あたしが死なないって言ったの翠なんだから、ちゃんと自分の言葉、信じな?』
諭すように言われ、ようやく翠は顔を上げる。涙でくしゃくしゃになった表情で美咲を見つめ、すぐ彼女の言葉を理解すると、涙を拭った。
『美咲姉ちゃん、約束だよ?もう、刑事やめるなんて言わないでね?』
翠の言葉に、美咲は明るい表情を見せ、頷く。その笑顔を信じることが出来るから、翠も自然と安心できていた。
だが、それから数カ月後、彼女はその約束を破ることになる。ただ、約束と違ったのは、彼女は刑事をやめて死んだのではなく、死ぬことでやめざるを得なくなったということである。
始めから解っていた。刑事という仕事が危険と隣り合わせのものだということも、彼女らがただの刑事でないことも。
有哉と美咲は、警視庁刑事部特別捜査スプレス課――通称特捜S課に所属していた。特捜S課とは、俗に言う超人類――遺伝子改良された人間、ジェネティックレイスや、動物遺伝子を組み込まれた人間、バスタード――が起こす犯罪を取り締まる刑事、スプレスが所属する課である。
その当時は、課長を含め、神條美咲警視、三森有哉警視、夏南倫子警部の4人が正式に所属していて、翠は当時まだ9歳だったので、特別労働法――満10歳以上の子供が能力に応じた職につける法律――の適用外だったということもあり、スプレス見習いとして、特捜S課で雑務をこなしていた。
だが、翠が10歳の誕生日を迎え、スプレスになれたという祝いに、美咲と有哉が実践訓練に連れて行ってくれた。そこで、2人が犯人役となり、翠が1人で捕まえるという設定だった。
なのに、偶然、その廃工場で、翠が麻薬の取引現場を目撃してしまったのだ。
――あの時、ぼくが足を捻らなければ…。
墓石の掃除を終え、翠は美咲の前で歯噛みする。今は、彼女の明るい笑顔に胸が締め付けられた。
スプレスにとって、ハンデを背負うことは命にも関わる。ジェネティックレイスなら互角だが、バスタードならば特殊能力があるので、形勢は大きく変化する。その時が、まさにそうだった。
逃げている途中で足を捻った翠を見つけ、助けてくれたのは有哉だった。彼は、翠を庇いながら、必死に応戦していた。また、美咲と合流してからも、2人共翠を決して見捨てようとはしなかった。そのせいで、美咲はバスタードの男に足を取られ、その彼女を庇って有哉が撃たれた。そして、深手を負った彼の代わりに、美咲が何人もの男を相手に応戦していたが、翠には見守ることしかできなかった。
だが、美咲が男に銃を突き付けられた瞬間、翠は反射的に有哉の銃を奪い、男の1人を撃っていた。
そのせいで標的が翠に向き、このままひきつけられれば、と思っていたが…。
一発の銃声が響き、頬に温かい雫が飛び散る。目の前が真っ赤になって、一瞬だけ倒れ込む彼女の姿が見えて、それから、頭の中が真っ白になって…。
その後のことは、どうなったのか覚えていない。気が付けば、病院のベッドで寝ていて、美咲と有哉の死を聞かされた。
もう、あれから5年経つ。だが、その傷が癒えることはいまだない。直接手を下していないにせよ、自分が2人を殺したようなものだ。悔やんでも悔やみきれない。だからこそ、忘れることができないのだ。
静かに墓の前で手を合わせていた翠だったが、次第にその肩が震え始める。溢れてくる想いを、もう止めることは出来なかった。
「ごめんなさい…ッ、本当に、ごめんなさい…ッ!」
何度言っても足りない。もう声も届かない。それでも、翠は震える声でただ謝り続けた。
謝ることで、心が深くえぐられるようでも、止めることが出来ない。それほど、美咲も有哉も、翠にとっては大事な人だった。
苦しさに耐えられず、死にたいと思うこともあった。だが、2人が護ってくれた命だからと、絶つことも出来なかった。それに、倫子も言ってくれたのだ。そんなことをしても、美咲や有哉に怒られるだけだ、と。それに、美咲なら、笑ってこう言ってくれるはずだ、と。
「まぁた泣いてるの?翠、泣き虫だもんね?やっぱ、あたしがいないとダメなんだ?」
唐突に聞こえてきた美咲の声に驚いて翠が顔を上げると、そこには、彼女と似ても似つかない少年が立っていた。
年の頃は14、5歳ほど、赤髪金瞳で、黒いTシャツにジーパンという出で立ちだ。
「それに、有哉ならこうだな。『翠、頼むからそんな顔せんといてや。俺ら、お前を泣かせたかったんちゃうで?お前が好きやから、勝手に護ってもただけや』って、笑いながらな」
声こそ有哉そっくりだったが、微妙な関西弁が翠の笑いを誘う。先刻までの気持ちが、少し軽減するのが解った。
「泣いたって、あいつらは戻ってこねェし、喜びもしねェよ。過去は取り戻せねェから、前を見るしかねェんだ」
「柊一…」
翠の頭にぽんと手を置いて、彼は笑顔を見せた。つらい想いを抱えて何年も生きてきた柊一だから、言える台詞なのかもしれない。
柊一は、手にしていた鞄からビール缶を取りだし、供えてから、ライターで線香に火をつける。ついでに煙草にも火をつけながら、言ってきた。
「有哉と美咲に顔向け出来るような刑事になるんだろ?それに、俺の上司もやってンだから、しっかりしてくれよな、東麻警視正?」
その言葉には、思わず翠も呆気に取られてしまう。まさか、柊一から自分を上司と認める発言が出てくるとは思いもしなかった。それには、嬉しさも込み上げてくる。自分はここにいて良いのだと。
翠は涙を拭うと、笑ってみせた。
「お前にそれを言われるようじゃ、ぼくもまだまだだね。でもさ、こんな頼りがいのない奴でも、上司だと、相棒だと思ってついてきてくれるかな、仁科警視?」
「当然だろ?」
笑顔で頷く柊一の言葉に、翠もようやく忘れていたことを思い出した。
今度こそ、大事な人を護る、その想いを。
「でも、煙草は没収」
「あぁ!?何でだよ!」
「未成年だからに決まってるだろ!何考えてンだ、お前は!」
「吸いたいから吸ってンだろ!」
「そういうことは、20歳になってから言えよ!今だって、高校生にすら見られないくせに!」
「ンだと!?」
「何だよ!ぼくはお前の身体のことも…」
いつものように際限のない応酬を繰り返していた翠だったが、不意に、何かに気付いたように振り返る。そこに、決して立っているはずのない人物の気配がした気がして…。
「翠…?」
その様子の変化には、さすがに柊一も怪訝な表情で聞いてくる。だが、翠はすぐに踵を返し、笑みを見せた。
「ううん、何でもない」
「そっか。じゃあ、今度は有哉の墓参りにでも行こうぜ?和歌山じゃ、ちょっと遠いけどさ」
「うん」
頷いてみせると、翠は柊一と共に歩き出した。
少し暖かい春の風が吹く。
大切な想いを教えてくれた人に、ありがとうの気持ちを乗せて。
あとがき:
あんまり春らしくない話ですが。
でも、落としっぱなしは嫌なので、最後には明るくしました。
ずっと罪悪感を抱えて生きてきた翠を、陰で支えてくれる想いがある。そういう話にしたかったので。
本当は命日に墓参りという話にしようかと思ったんですが、あえてこの時期にしようと思ったので、4月下旬という設定です。
美咲や有哉への想い、それから自身の身体のことで精神的につらい想いをすることが多い翠ですが、悲しんでいるばかりでは終わらない、そういう話です。
〔2004.5.1〕