降り積もる想いの欠片

 空から粉雪が舞い落ちてくる、3月のある日。梅が小さな花を咲かせ、桜もあと数週間で開花という時期だ。なのに、肌寒いを通り越して凍えるようなこの気候は何だろう。
 玄関で靴に履き変え、学校の外に出た明香莉は、不平を漏らすわけでもなく、感嘆の声を上げるでもなく、ただ呆然と空を見上げた。傘をささなくても歩ける程の降り方だ。このまま行っても問題はないだろう。そう判断すると、彼女は何となくコートの前を整えてから外に出た。
 昼休みが始まったくらいの時間なので、人はいない。始めは気が引けた早退だが、仕事になれた頃にはそんなものも感じなくなっていた。だが、それも今は当たり前の生活として定着しつつある。それが、昔の自分から見れば、不思議なものであり、嬉しいものでもあった。
――だって、あの人に出会えたから。
 胸中で独りごちれば、自然と笑みがこぼれる。それほど、自分にとっては大切な人だから…。
「明香莉」
 門を出た時に、不意に声をかけられる。傘をさし、制服姿で笑顔を浮かべている人物の姿に、驚きのあまり、鞄が自分の手から離れるのが解った。
「あ、翠先輩!?」
「そんな驚くようなことか?」
 思わず上擦った声で名前を呼べば、苦笑を返される。そして、明香莉が固まっている間に、翠は鞄を拾って軽く土を払い、こちらに手渡し、言った。
「ほら、いつまでもそんなとこ立ってると濡れるよ?」
「え、あ、でも、私、傘を持ってませんし、先輩も学校帰りで何かとお疲れでしょうし、えと…」
 自分でも訳が解らないことを言っていると自覚していたが、必死に翠に答えようと言葉を紡ぐ。だが、翠が言っていることの意味をようやく理解し、言葉を切った後、明香莉の思考は暫く停止した。
「ほら、頭に雪積もってる」
 言って、雪を払ってくれながら、翠は自分がさしていた傘の中に明香莉も入れてくれる。その間も呆けたままの明香莉だったが、我に還った刹那、慌てて身を引いた。
「い、いえ、だ、大丈夫です!ほら、私、滅多なことでも風邪引かないっていうか、バカは風邪引かないって言いますし、それに、これぐらいの雪、庁舎までなら何とかなりますし!」
「じゃあ、ぼくも傘さすのやめようかな?確かに、傘なくても平気そうだし」
「そ、それはダメです!翠先輩の身に何かあったら大変ですし、私のために風邪引いちゃったりしたらほんと申し訳ないですし、それかに、私、うさぎのバスタードですから、雪はきっと大丈夫ですッ!」
 何とか翠を説得しようと不確かなことを自信満々に言ってみる。その台詞に、翠は始めこそきょとんとした表情を見せていたが、次の瞬間には大爆笑を始めていた。
「な、何で笑うんですか!?」
 翠の反応に、訳が解らず思わず半泣きになりながら、明香莉。それに、翠は笑いすぎで涙目になりながら答えた。
「や、必死に言ってるのがあんまりにも面白かったからさ。そんなだから、敦郎にいじめられるんだよ?」
「う…」
 言われ、自分でも納得できるところがあったので、思わず口ごもる。すると、翠は先刻までとは違い、優しい笑顔を見せてくれた。
「でもさ、明香莉はバカでもないし、バスタードでも人間なんだから。それに、何より明香莉がいてくれないと困るしさ」
「…はい」
 そこまで言ってもらえたら、もう遠慮することも出来ず、明香莉は翠の傘にいれてもらう。
 翠は、いつだって優しい。初めて会った時からそうだった。誰にでも分け隔てなく優しく出来る人だと知ったから、明香莉も翠を先輩と慕う。他に特捜S課にいる人達を先輩と呼ばないのは、翠には別の恩義があるからだ。
――先輩は、優しいんだよ、誰にでも。私だけじゃ、ない。
 そんなこと、解っている。だが、その優しさと無自覚な言葉が、時にはほんの少しの苦しみも与えた。
「どうした?明香莉」
 声をかけられて、彼女ははっとしたように顔を上げる。翠の方に目を向けてみれば、心配げな表情にぶつかった。
「あ、何でもないんです。ちょっと昔のこと思い出してて…」
「昔のこと?」
 聞かれて、明香莉はすぐに返せなかった。とっさに思いついたことを言ってみるものではないと後悔する。だが、このまま沈黙で通す訳にもいかず、言葉を探していると、
「そういえば、明香莉が特捜S課に来た頃もこうやって迎えに来たりしたね?」
「え…?」
 翠の言葉に、思わず聞き返す。だが、それは届かなかったのか、翠は懐かしげに続けた。
「最初に迎えに来た時は雨だったね?あの日も、高斗さんに、明香莉が傘持ってないし自分も行けないから頼むって言われてきたんだよ」
「お兄ちゃんが?」
 翠の言葉に、明香莉は少し驚いたような声を上げる。それは、今日のことに対してではなく、翠の言う、明香莉が仕事についた頃の話に対してのものだった。
 あの当時、明香莉と高斗の仲は決して良いとは言えなかった。つい1年前までは別々に暮らしていた2人だ。そう簡単に打ち解けられるはずもなかった。ただ、そのおかげで、こうして翠に出会えたというのがあるのだが。
「それで、あの時も傘を差し出したら、いいです、って言われたよな」
「あ、あの時はまだ翠先輩のこと男の人だと思ってたから…。何か、恥ずかしかったし…」
「でも、今はどっちでもないって知ってるだろ?」
 どこか楽しそうに聞かれ、明香莉は思わず口ごもる。翠は知らない。今は、別の想いが翠の行為に戸惑う理由を与えているということに。
「翠先輩、言い方がだんだん敦郎さんに似てきてる気がします…」
「失礼だな。ぼくをあんな奴なんかと一緒にしないでよ?」
 ため息まじりに言ってみると、翠は苦笑を浮かべて反論してくる。それには、明香莉もつい笑ってしまっていた。
「それに、言い訳するつもりはないけど、明香莉がそう感じるのはぼくが敦郎に似てきたからじゃなくて、明香莉がからかわれやすい性格なだけだよ」
「あっ、ひどいです、先輩!私、そんな性格してませんよーだっ!」
 歯をむいて言ってみせるが、翠は軽く笑うだけで応じてくれない。それにはむくれた表情を見せていた明香莉だったが、不意に翠に笑顔を向けられ、怒りもどこかにふっとんでいた。
「ほら、そういうとこ。すぐむきになるのがかわいいからいじめられるんだよ」
「むーっ」
 かわいいと言われて悪い気はしないが、それがからかう対象になるのは複雑だ。しかも、翠の口からそんな言葉を聞けるとは思いもしなかったので、さっきから明香莉の心臓は暴走しっぱなしである。
「ほんと、解ってないなぁ、先輩は」
「何が?」
 胸中で言ったつもりだったが、思わず口に出して言ってしまっていたらしい。翠から返事があって、最初は驚いた明香莉だったが、すぐに笑うことが出来た。
「そうやって先輩にからかわれるたびに、私がふかーく傷ついてるの、知ってます?」
「え…?」
 その言葉は予想外だったのか、翠が驚いたような声を上げる。それから、それが申し訳なさそうな表情に変わった。
「あ、ゴメン、ぼく、そんなことにも気付けなくて…」
 落ち込んだ風に言ってくれて、それが本気で自分のことを思って言ってくれている台詞だと解ったから、嬉しくなって、笑みを浮かべながら翠の背中を軽く叩いた。
「そんな顔しないで下さい。冗談ですよ?翠先輩がからかってくるから、仕返しです」
 小さく舌を出して言う明香莉の言葉に、翠は一瞬きょとんとした表情を浮かべる。だが、すぐに気付いたような顔付きになって、明香莉にヘッドロックをかけてきた。
「こら、本気で心配しただろ!」
「だって、私だって負けっぱなしじゃ悔しいですもん」
 一応は抵抗しながらも、笑顔を見せながら、明香莉。翠も本気で怒っている訳ではないから、それほど苦しくない程度の強さでヘッドロックをかけていたが、
「はわっ!」
 じゃれていた場所が悪かったらしい。朝から降り積もっていた雪のせいでただでさえ悪い足場だ。ちょっとつまずいた拍子にバランスを崩し、明香莉は派手に転んでしまっていた。
「った〜!」
「だ、大丈夫か、明香莉!?」
 唐突のことに、翠も驚いたように声をかける。それに、最初は頷いてみせた明香莉だったが、不意に降り積もっていた雪の塊に触れ、不敵に笑う。
「明香莉、ほら、手、貸して…うわっ!?」
 言って、差し出してきた翠の手に、明香莉は軽く固めていた雪の塊をぶつける。案の定驚いた声を上げる翠に、明香莉は満足げな笑みを浮かべた。
「へへっ、こかされたお返しです」
「あ〜か〜り〜!」
「ひゃう、冷たいです!」
 怒ったような声を出し、翠が冷えた手で頬に触れてくるから、明香莉は思わず変な声を出してしまう。だが、それで引き下がりたくなくて、彼女は翠の手を思いきり引いた。
「うわっ!」
 明香莉の思惑通り、翠はバランスを崩して転倒する。その拍子に雪の塊に突っ込んでしまっていた。
「ちょっ…もう、どうすんだよ、これ」
 困り果てたように濡れた制服を広げてみせる翠に、明香莉は思わず笑ってしまう。すると、翠も吹き出して笑い出した。
「ほんと、変わったよ、明香莉は。すごく明るくなった。まさか、こんないたずらされるとはな」
「あはは、ごめんなさい…」
 さすがに、苦笑まじりに言われ、明香莉も申し訳なさそうに返す。だが、翠は、そんな明香莉の頭にぽんと軽く手を置き、言った。
「それで良いんだよ、君は。ぼくの前じゃ、先輩だって気を使いすぎなんだから」
「あ…」
 言われて、ようやく翠の本心に気付く。そして、翠本人から言ってもらえた、もっと近くにいても良いんだよ、という言葉が本当に嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。
「じゃあ、先輩、私が変わっていっちゃっても、変わらず、私の先輩でいてくれますか?」
 何となく、思ったことを聞いてみる。すると、翠は、優しい笑顔を浮かべてみせた。
「当たり前だろ。そうでなきゃ、ぼくが高斗さんに怒られるよ。それに、そうやって慕ってくれる子の気持ちを無下にはしたくないしな」
「ありがとうございます、翠先輩」
 少し冗談めかしたような言葉も、本心からの、誠意あるものだと解るから、お礼しか言えなくなる。嬉しすぎるこの言葉に、込み上げてくるものを抑えるのに精一杯で。
「ほら、早く庁舎に行かないと、柊一も課長も待ってるよ」
「はい」
 頷いて、差し出された手を取って立ち上がる。
 確かに、ここに手の温もりが感じられる。大事な人は、もう手の届くところにいてくれる。そう教えてくれたのは、この人だから。
 想いの欠片は、いまだ降り積もる。時に冷たく、でも、ほとんどはこの胸を暖かくしてくれて。
 かけがえのないものだと思った。消してしまいたくないものだから。
 きっと、ずっと降りやむことはないのだと、それは、きっと嬉しいことなのだと、そう思った。





あとがき:
少しご無沙汰の更新になりますね。
今回は、1500HITのキリリク小説で。
雪ということでお題を頂いていたのですが、一向に書けず。
そうこうしているうちに、雪がメインの季節が終わってしまい(爆)
それでも、何とか早めに、と思っていましたら、最近雪が降ってくれましたので、こんなネタになりました。
雪というお題をいただいた時にいくつか考えていたのですが、結局急遽携帯で作成する形で仕上げるに至りました。
最後になりましたが、左京さま、キリリクの方ありがとうございました。
遅ればせながら、捧げさせていただきます。
〔2005.3.25〕
BGM by MASCHERA 「ラストフォトグラフ」 Janne Da Arc 「differ」