『ねぇ、あの夏にした約束、覚えてる?』
彼女の言葉はいつも突然で。それは甘美な歌のように俺の心に流れ込んでくる。
『何だ? 甲子園に連れていく、か?』
『何でよ! てか、いつから野球少年になったの?』
『それは俺も聞きたいと思ってたところだ』
『もぅ!』
俺がからかえば、そうやって頬を膨らませる。小さい子供みたいにさ。でも、彼女が本気で怒ったのを見たのは、後にも先にも、あの一回だけだった。だからって、それで良い関係と言えるかは別だが。
『だから、去年の夏だよ』
『で、どんな約束だったんだ?』
『へへ〜、それはね…』
そう言って嬉しそうに笑ったアイツの顔だけは、今でも鮮明に覚えてる。
大好きなその笑顔、護れるのは俺だけだと、あの時は本気でそう思った。
――キズナ――
「嫌っ、絶対に嫌!」
家を揺るがすのではないかという大声が響く。彼女の近くにいる者で耳を塞がずにいられるなら、かなりの強者だろう。
「だから、まず落ち着いて俺の話を…」
「聞・か・な・い!」
いーっと歯を剥いて、耳を塞いで、頑として話を聞く姿勢を作ろうとしない。本当に耳を塞ぎたいのはこっちだ。
「聞きたくないならそれでも良い。勝手に言う」
それなら、と、俺も意地になって言う。でも、彼女、遥の態度は変わらなかった。
「お前だって知ってるだろ? 俺の子供の頃からの夢なんだ」
「知ってるよ! でもっ、家を出るなんて聞いてない!」
「…俺だって思わなかったよ」
正直、甘く考え過ぎていたのかもしれない。それは、認めざるを得なかった。
俺は、ずっと医者になりたかった。きっかけは何だったか忘れたけど、まるでそれしか道がないみたいに信じてきた。年と共にそれは夢物語ではなくなり、現実が見えてきても変わらない。その信念が崩れることはなかった。でも、
「校長先生が、広陵大の医師と知り合いでさ。俺を推薦してくれたらしいんだ。でも、まだ正式に決まったわけじゃないし」
「亮ちゃんの成績なら受かるに決まってるじゃない。そしたら、行くんでしょ? 広陵大」
「……」
遥に聞かれて、たった一言が出なかった。それは、彼女に恨みがましい目で見られてたからじゃなくて、ただ、気持ちに迷いがあったから。
千載一遇のチャンスなのはわかってる。でも、広陵大に行くということは、遥と別れるということ。それが今生の別れではないにしても、遥にとってはそれも同然だ。それくらい、長い間一緒にいたんだ、俺達は。
きっと、広陵に行ったら、長期の休みにしか帰って来られない。それで、遥はどれだけ耐えられる?
「あたし、広陵になんか行けないよ。亮ちゃんみたく頭良くないもん。それでも、亮ちゃんと離れたくないって言ったら、わがままだよね?」
泣き笑いみたいな表情を浮かべて遥が言う。わがままだ、って、そう言ってやれば彼女の気は済んだのだろうか。
「わかってくれよ、遥。6年経ったら、必ず戻ってくるから」
「6年だよ!? そんな長い間離れてても平気なんて、亮ちゃんにはそんな簡単なことなの? その6年の間にあたしが死んじゃったらどうするのよ!」
遥は、俺と離れることが耐えられなかった。でも、俺はそんな遥の言葉に耐えられなかったんだ。
気付いた時には、彼女の左頬は赤く染まり、俺は微かに震える手を握りしめていた。
「死ぬとか簡単に言うな! 俺達、そんな脆いもんで繋がってたのかよ! そんなに俺のことが信用できないか!?」
一気にまくし立てちまうと、ようやくまともに遥の顔を見た。
遥は、泣いてはいなかった。ただ呆然と俺の方を見ていて、俺の言葉を聞いて、やっと理解したように表情を変えた時には、力の限り叫んできた。
「もぅ良い! 亮ちゃんのバカ!」
言うが早いか、遥は部屋を出ていく。でも、俺はその後を追う気にはなれなかった。
今までは、軽いわがままだったんだ。あれが食べたいとか、これが欲しいとか、あと少しだけ一緒にいたいとか。そういうのは、俺には大したわがままにしか聞こえなくて、つい許してた。
でも、今回のは別だ。遥が嫌いになったから言ってるんじゃない。すきだからこそわかって欲しかったのに、どうして…。そんな気持ちばかりが浮かんでは消える。
もっと、ちゃんと繋がっていると思ってた、俺達。一言で言ってしまえば、幼なじみで、恋人でもある俺達の関係。でも、そんな一言では片付けられない、いろいろなことが俺達にはあった。
傍に長くいた分、離れるのがつらくなると言うが、俺は逆だと思った。それだけ長くいたから、お互いのことよくわかってるし、だからこそ離れていても理解できると。もちろん、そんな考えは遥にすぐ却下されてしまったが。
遥に、初めて手を上げた。喧嘩をしたのもこれが初めてだ。こんな初めてはいらない。俺は、ただ…。
「……」
ここにいても仕方ない。俺がここにいたら、遥も家に帰って来られないだろうしさ。そう思って立ち上がると、
リィ…ン
本当に小さな音が、ポケットの中でした。中に何が入っているか、今の今まで忘れてたんだ。それが教えてくれている。俺は、遥と喧嘩しに来たんじゃないってこと。
「ッ、くそっ!」
思わず舌打ちして、俺は挨拶もそこそこに遥の家を飛び出した。
バカなのは俺の方だ。あいつの苦しみを忘れていた。いつだって、俺の前では笑っているから。楽しそうに、何でもないことにすらおかしそうに。
遥が、俺の前で本当の弱音を吐かなくなったのはいつからだ?
涙を見せなくなったのはいつからだ?
俺が、求めてしまっていたんだ、強い彼女を。
「遥!」
やはり、彼女は公園にいた。俺達が小さい頃良く遊んでいた場所。落ち込んだり、誰かと喧嘩したりした時には必ず遥が来る場所。
俺の声に気付いて、ブランコに座っていた遥は驚いたように顔をあげた。でも、すぐにうつむく。
その姿が、俺を拒絶している。わかってはいたけど、近づいて、俺はポケットの中に入っていたものを取り出し、彼女の膝の上に置いた。すると、今度こそ、遥は顔をあげて俺を見る。
「亮ちゃん、これ…」
「まぁ、俺は信じちゃいないけどな。遥は好きだろ? 運命の赤い糸、とか、永遠の絆、とか」
俺が取り出したのは、近所の神社の縁結びのお守りだ。と言っても、編みこまれた赤い紐の先に鈴が付いてるだけの簡単な代物。でも、こんなものが効果絶大だとクラスの女子の間では人気だった。
俺にしてみればそんなの迷信だけど、なんて前に言ったら、遥は頬を膨らませてたっけ。あたしは信じてるんだもん、って。
「これじゃ、約束にならないか? 俺は、絶対医者になる。それで、遥の病気、すぐに治してやるから、それまで、待っててくれないかな?」
「亮ちゃん…」
医者になりたかった。体の弱い遥を治してやれるように。支えてやれるように。そのことを思い出しただけで、こんなにも穏やかになれる。
俺の言葉に、遥はようやく笑って、それから静かに頷いた。
さっきまではすごい怒ってたくせに、こんなことで許してくれるなんて単純だなって思う反面、そんなとこもかわいいと、つい思ってしまう。まぁ、口には出して言ってやらないが。あと、聞きわけが良くなってくれた分、さすが、成長したというところか。
「あ、でも、メールは毎日ちょうだいね? それから、連休が続いたら帰ってきてね?」
「……」
前言撤回。やっぱり、遥は子供だ。
「絶対長期休暇にならないと帰ってこないからな」
「え〜、ひどいよ、亮ちゃん! じゃあ、これなら良い?」
「何?」
「どうしても寂しくなったら、会いに行っても良い?」
すごく優しい笑みを浮かべて、遥が言う。それには、俺もつられて笑ってた。
「その時は、俺の方から会いに行ってやるよ」
「嬉しい」
そう言う遥の表情は本当に嬉しそうで、この笑顔を覚えていれば何があっても大丈夫だと本気で思えるほど、俺には忘れがたいものだった。
それから程なくして、俺の広陵大への進学が決まり、その約半年後、俺達2人はそれぞれの道を歩き始めた。
澄んだ秋空に紅葉が映える。少し肌寒くなって、季節が巡っていることを教えてくれる。
君と離れて、もういくつ季節が通り過ぎただろう。そんなことも忘れてしまいそうなほどに、俺の大学生活は忙しかったけども。
でも、これで、やっと約束が果たせた。医者になるってことも、遥を診てやるってことも。
「お、お待たせ、亮ちゃん…」
はぁはぁ大きく息をつきながら、彼女は無理に笑顔を作ってみせた。その頭を、俺は軽く雑誌で叩く。
「亮ちゃんはもう止めろって言ったろ? ちゃん付けはいい加減きついって」
「だって、呼び慣れてるんだもん。それとも、ダーリン、とか言った方が良い?」
「言える勇気があるんならな」
「む〜」
相変わらずの子供っぽい表情を見せて、遥は先に歩き出した俺の後をついてくる。いつまでたっても変わらないんだ、彼女は。良い意味で、な。
「あ。あと、もう一個」
「何?」
「いくら約束の時間に遅れそうだからって走るな。こけたら大変だ。お前1人の体じゃないんだからな」
言ってやると、遥は一瞬きょとんとした表情を見せる。でも、すぐに笑顔を見せた。
「了解、だんな様!」
「…それならまだ亮ちゃんのがマシだ」
その物言いに俺がうんざりしたように言うと、遥は声を上げて笑う。それにつられて、俺もつい笑っちまってた。
永遠なんて、本当に約束できるものなんて思っちゃいない。でも、俺達の絆は、簡単に消えるものじゃないと信じているから、こうして誓えた。
彼女の好きな"運命の赤い糸"は、まだこうして繋がっている。
あとがき:
恋愛もの、第二弾になります(笑)
これは、ぼくにしては珍しくというか、クールな彼氏と我儘な彼女、と言う関係で。
だいたい、彼氏の性格で多いのは、『Outrager』の柊一のようなタイプですし、
彼女の方は明香莉のような感じが多いのですが。
そういう意味では、書いていてなかなか新鮮味のある話でした。
〔2006.7.4〕