mist 麗花の微笑
トントンと、小気味の良い音が響く。
最近では珍しくなった書類整理を終え、彼女は一息ついた。
流れるようなブロンドの髪に形取られた、均整の取れた顔。初対面の彼女に対し、男女問わず、躊躇なしに話し掛けられる人物などまずいないだろう。とっつきにくいというよりは、その清廉な雰囲気に魅了されているような気持ちにさせられる女性である。長身の彼女が身につけるのは、たいていパンツスーツだ。本人が意図しているわけではないが、タイトパンツに包まれた足はより長く、美しく見える。それが、余計に彼女の雰囲気を作りあげていた。
そのせいか、彼女が座る席の周囲には人がいなかった。元々、彼女が集団でいることを嫌うせいでもあるだろう。ただ、おかげで人が多い時間帯でもゆっくり過ごせるのだが。
ただし、彼女も常に1人でいるわけではないし、話し掛けてくるような人物がいないわけでもない。
「中央、ここ、空いてるか?」
呼ばれて、彼女、中央倫子は顔を上げた。そこには、男性が微笑を浮かべて立っている。茶髪緑瞳で、年の頃よりも若く、精悍な顔付きをしたその人物は、倫子の顔なじみだった。
「どうぞ」
さして表情も変えず、席を勧める。すると、彼、仁科響一は礼を言って倫子の前の席に座った。
その自然な流れを、彼女は何となく見てしまう。特に気になる所作があったわけではない。単なるクセだった。
倫子は、特別捜査スプレス課特別査察管理局の人間だ。仕事としては、特別捜査スプレス課――通称特捜S課という、刑事部に新設された部署の人間の、仕事態度についてを監査する。そのせいか、つい出会う人物を何気なく見てしまうことが多い。
そんな彼女の様子に、響一も気付いたようだった。
「仕事熱心だな」
「…すみません」
苦笑されて、思わず居ずまいを正す。彼も特捜S課の人間なのであながち関係ないとは言えないのだが、今は監査中ではないので謝っておく。だが、彼はさして気にした風もなく笑ってみせた。
「また随分な量の書類だな」
その言葉に、倫子は隣の束に目をやる。だが、すぐに目線を戻し、ほとんど無表情に近い笑みを浮かべた。
「データクラッシュが起こった頃のデータなんです。今のパソコンでは読み込めない記憶媒体だったので、こうやって文書化して」
「5年前のものか…」
感慨深げな表情で、響一。それに、倫子は頷いて応じた。
「今は管理する側にあるからかもしれませんが、こういうデータも必要かもしれませんね。悪い部分も残りますが、功績も残る」
「……」
独りごちるような言葉に、答えはなかった。彼にも、思うところがあるのかもしれない。
5年前、まだ倫子も高校を卒業するかというくらいの時分だった。その時は、特別労働法という、満10歳以上の子供に能力に見合った職に就く資格を与えるという法律の保護の元、管理される側の立場にあったのだ。査察が入るという噂を聞くと、学生であるのを良いことにあまり特捜S課に寄り付かないようにしていた。それが無駄な行為だったというのは、今回の書類整理で良く解ったのだが。ただ、倫子が目を止めたのは、自分の調査書類の方ではなかった。
「今でも、思ってしまうんです。何事もなかったかのような笑顔を浮かべて、ひょっこり帰ってくるんじゃないかって」
言いながら、彼女は懐かしむような表情を見せる。
かつては、上司だった2人の人物。今はもういないが、その存在はいつまでも生きづいている。鮮明すぎて、死んだという事実が夢であったかのように。
「確かに、彼らの存在は忘れられないだろうな」
不意に言葉が返ってきて、倫子は多少驚いた様子で顔を上げる。見れば、響一が煙草に火をつけているところだった。そのまま言葉の続きを待っていると、彼は一息ついてから言ってきた。
「特に印象の深い奴らだったからな。忘れようと思っても忘れられんだろう。だが、今君が思うべき相手は、他にいるんじゃないかな?」
言われて、彼女は気付いたようにはっとして、響一を見た。自分は、今目の前にいる人物に似た少年を良く知っている。そして、その傍らにいる人物と、少女も。
彼らの姿が自然と思い出されると、倫子は思わず笑みを漏らし、言った。
「そうですね。私には私の、今の仕事がありますから。後ほど伺いますので、課に戻っておいて下さい」
「あぁ、一休みしたらそうしよう」
立ち上がりながらの倫子の言葉に、響一はゆっくりとコーヒーを飲む。苦笑とも、余裕がありげだとも取れる表情は、相変わらず彼の真意を掴ませてくれない。それで不快感を感じないのが不思議なところだが。
そんな彼を残し、倫子は一度管理局に戻り、整理した書類を棚に入れた。
「局長」
ちょうど最後の書類を棚に入れ終わったところで、声をかけられる。振り返れば、どこか幼さの残る顔立ちの少女が書類を抱えて立っていた。
「どうかした?」
特に笑うこともせずに、倫子。すると、少女は戸惑いがちな仕草を見せ、だがすぐに言ってきた。
「書類整理くらい、私達に任せて下されば良かったのに。面倒じゃないですか?」
「良いのよ。楽するために偉くなったわけではないんだし、ね」
意味ありげな笑みを浮かべた倫子の言葉に、少女は怪訝な顔付きを見せる。これは、当時の特捜S課の人間にしか解らないだろう。
「でも、あたしの仕事だと、書類整理をしている方が楽をできるのは事実ね」
付け加えた言葉に、今度は彼女も笑ってくれた。だが、そんな局長の言葉を聞き止めて驚きを隠せない他の局員達同様、少女も驚きはしたらしく、笑いながらも言ってきた。
「仕事に楽かどうかを求めるなんて、中央局長らしくないですね」
「そう?あたしも時には息抜きが必要なのよ」
心外だと言いたげな調子で言ってやると、少女はますます笑う。確かに、昔の自分ならこんな冗談を言うなどとはありえないだろう。自分でも正直驚いている。だが、良い変化ではないか、と思えるのも事実だった。
書類を棚に戻し終え、倫子は自分の席に戻る。そこには、彼女のやるべき仕事の数々があった。今は他にやるべき仕事もあるので、まず急を要するものから手をつけることにする。
「あ、局長」
呼ばれて、顔を上げる。すると、机の前に書類を持った青年が立っていた。
「先日、特捜S課が解決した事件の報告書のまとめです。確認お願いします」
言いながら手渡された資料を一瞥し、パラパラと目を通す。適当にしか見ていないような所作だが、彼女がそんなことをするわけがないというのは解っているし、目が真剣そのものだったので、誰も文句を言うものはいなかった。
暫くそうやって見ていた倫子だったが、やがて目を閉じ、書類を机の上に置く。
「やり直し」
抑揚のない声に、その場の全員が凍りつく。それに気付いていないフリをして、彼女は言葉を続けた。
「まとめ方が雑だわ。もっと見やすくしてちょうだい。後の捜査資料にもなるかもしれないものなんですからね」
「はい、解りました」
的確な指摘に、彼は納得したようだった。どこか安心したような表情さえ見せているのは、この方が倫子らしいからか。
「局長、頼まれていた書類の方なんですが」
「見つかった?」
今度は別サイドから声をかけられ、自分の仕事に戻っていた彼女は顔を上げて応対する。だが、次の瞬間にはすぐに顔を下げた。
「いえ、まだなんですけど」
「じゃあ、頑張って」
即答で、一言。さすがに言われた女性の方も苦笑を浮かべた。
「あの、そうではなくてですね、その書類が見つからなくて…」
「昔の書類だから、棚の奥に落ち込んでいるとか、他の場所に置かれているとか、そういう可能性は考えたの?それとも、他の人が持ち出した可能性だってあるわ」
「あ…」
倫子の言葉で、女性は自分の失態に気付いたようだった。苦笑というか、乾いた笑みというか、微妙な表情を浮かべる。
「いつも言ってるでしょ。あらゆる可能性を考えて、って。全ての可能性を考慮してから戻ってきなさい」
「すぐ行ってきます!」
「そうしてちょうだい」
倫子の言葉に、女性は蛇に睨まれたかえるのように慌てて出て行く。その足音を聞きながら、倫子は密かにため息をついた。彼女の失態を責めているのではない。ただ、クセのようなものだった。
「ため息なんかついてたら、幸せが逃げますよ?」
不意に隣で笑い声が聞こえる。だが、よく知った人物だったので、倫子はそのまま顔も上げずに作業を続けながら言った。
「良いのよ。結婚もして、普通に幸せな生活を手に入れてるから」
「またそんなことおっしゃって」
淡々とした物言いに、先刻倫子と書類整理のことで話していた少女が苦笑する。彼女はここに勤めてそう長いわけでもないが、不思議と倫子の人柄になじんでいるようだった。
その彼女は、倫子の机にコーヒーを置きながら、言ってきた。
「本当の幸せ、局長はまだ掴んでいらっしゃらないんじゃないですか?」
ささやきかけるようなその台詞に、さすがの倫子も手を止めた。何となく少女の顔を見てみれば、その奥に昔に別れた人の姿が見えた気がした。かつては目標にしていた、1人の刑事の姿が。
「美咲と同じようなこと言うのね、貴女」
「え…?」
倫子の言葉の意味を測りかねてか、少女が怪訝な声を上げる。彼女は知らないのだ。かつての特捜S課に、男勝りの正義感の強い刑事と、その相棒で、一見やる気がなさそうだが的確な判断をいつも冷静に下せる刑事がいたことを。
だが、倫子は彼女の疑問には答えず、コーヒーに口をつけてから席を立った。
「鈴華さん、ここはお願いね。あたし、特捜S課に行ってくるから」
「え、あ、はい!」
有無を言わせる隙もなく言うと、彼女はすぐに返事を返す。それに満足すると、倫子は管理局を後にした。
歩きなれた通路だ。かつては刑事として、今は管理局の局長として。特に何があるというわけではないが、過去の資料を見返し、先刻のような状況にあい、響一と話したせいだろう。ほんの少し、懐かしく感じた。
――感傷的になりすぎているのかもしれないわね。
自分の中に浮かんだ考えに、思わず苦笑する。こんな姿を局員達が見れば、またらしくないと驚くだろうか。だが、ここまで変わったのは、きっと彼らの影響が大きいだろう。これを良いと取るか、悪いと取るかは別だが。
その彼らがいる特捜S課の前に来て、不意に倫子は足を止めた。何かが、今入ってはいけないと警鐘を鳴らしている。
――まさか、ね。
予感ではあったのだが、その考えがありえないと言いたげに嘆息する。確か、前に何気なく開けた時には、いまいち状況が把握しづらいという時もあったが、それは忘れたことにして、再び何気なくドアを開けた。
「もう、良い加減にしろッ!」
開いたと同時に怒声が聞こえてきて、倫子は以前同様、その場で固まった。その声に対する切り返しも早かったので、口を挟めなかった、というのもあるのだが。
「何でだよ!ちょっと課長探しに行ってくるって言ってるだけだろ!」
「どうせそのついでにどっかでサボってくる気だろ?課長だって、所用で出かけてるはずだし、帰って来るよ」
「甘いな。あいつは、楽して仕事しながら人を使えるようになりたいってだけで、偉くなったような奴なんだぜ?どっかでサボってるに決まってる」
「そんなの、息子じゃあるまいし」
「あぁ!?」
口論する2人、仁科柊一と東麻翠の姿を見ながら、倫子は密かに嘆息する。それは、2人のやり取りがあまりに馬鹿げて見えたから、というのもあるが、実は柊一の方が正論を言っているのを知っているからである。
聞いた話なので本当かどうかは疑っていたのだが、響一が課長に昇進した時、「絶対偉くなって楽してやる!」と吠えていたらしい。今の姿からは全く想像もつかないが、その片鱗は時々現れるようだ。特に、柊一に応対している時は。
――とにかく、今はこの場を収める方が先決かしら。
胸中で言って、倫子は軽く息を吸った。
「貴方達、いい加減になさい」
それほど大きな声が出たわけではない。だが、澄んで良く通る彼女の声は、激しい舌戦を繰り広げていた2人の耳にも届いたらしく、彼らは動きを止めた。それを良いことに、倫子は畳み掛けるように言う。
「警視、警視正ともあろう子達がそんなんじゃ、情けないわ。それに、あたしも報告せざるをえないんだけど」
「……」
倫子には珍しく、不敵ともとれる笑みを浮かべて言われたその言葉に、2人は彫刻のように固まってしまう。若干15歳ながら、警視庁でもその名の知れた名刑事である2人も、ちょっとした脅しに動揺する辺りは、まだまだ年相応というところか。
「ふふっ」
「な、何だよ?」
彼らの姿が面白くて思わず笑ってしまった倫子に、さすがに柊一も怪訝な表情を浮かべて聞いてくる。だが、倫子が答えることもせずに笑ったままでいると、今度は翠が戸惑いがちな表情を浮かべて言う。
「ほんと、どうしたんですか?倫子さん」
「特に、どうというわけではないんだけどね」
ようやくそれだけを絞りだして、一度言葉を切る。確かに、最初笑い始めたのは、柊一と翠の姿が面白かったからだ。でも、なぜだろう。今は、何がどう面白かったのか、解らなくなってしまっていた。ただ解ることは、この部屋にいた頃の自分は、こんな風に笑うことはなかった、ということだ。
「本当に、貴方達といると、悪影響ばかりね」
笑いが収まって、落ち着いた笑みを浮かべながら、倫子。それには、2人も心外だと言いたげな表情を浮かべて反論してくる。
「どこが悪影響だよ。まぁ、翠みたく、頭が固いって意味ではそうかもな」
「バカなこと言うな。ていうか、悪影響ってことは、その全ては、間違いなくお前のせいなんじゃないのか?」
「てめ、よくもそんな口を…」
そのまま再び舌戦に突入しそうな勢いだった2人だったが、先刻の脅しがまだ聞いているのか、すぐに言葉を止め、代わりに柊一が不敵な笑みを浮かべて言ってきた。
「つーかさ、それ、良い影響の間違いなんじゃね?お前、すげェ笑えるようになってンじゃん」
「そうかもしれないね。それに、ぼくも、今の倫子さんの方が好きですよ」
相棒の言葉に同意しながら、翠も笑みを浮かべて言ってくる。その言葉に、倫子は思わず絶句してしまっていた。返す言葉が見つけられない。あまりにも驚きすぎて。まさか、そんな風に思ってくれているとは思いもしなかったのだ。というよりは、気付かなかっただけか。
倫子がここを去って5年。あまりにも衝撃的な事件に直面したがために、一度は立ち直ることすら諦めていた自分をこんな風に変えてくれたのは、確かにこの子供達なのだ。幼いその身に背負うには大きすぎるほどの荷を背負って生きてきた、この子供達が。
そのことに気付くことが出来ると、倫子は自然と笑みを浮かべることが出来た。
「ありがとう、2人共」
言うと、柊一と翠も笑みを返してくれる。響一が言っていた言葉の意味を、ようやく理解できた気がした。
「でも、仕事に手を抜くのは許さないから。いつまでも喋ってないで、早く仕事に戻りなさい」
気持ちを切り替えて、ようやく管理局の局長らしさを取り戻し、倫子。だが、柊一はそれに真っ先に不満を漏らした。
「ンだよ、喋らせてたの、自分だろ?」
「柊一くん、減点して欲しいのかしら?」
査定用のファイルを片手に言ってやると、彼は全力で首を振ってくる。ただでさえ無茶をやらかしていろいろやっている柊一だ。こんなところで減点をくらいたくないと必死になっているらしい。隣で、翠が呆れ顔で嘆息しているのにも気付かないほどに。
「減点されたくなかったら、ちゃんと働きなさい。そしたら、ちょっとぐらいはおまけしてあげるわよ」
母親が諭すような口調で、倫子。すると、それを聞いてやる気を出したのか、既に自分の仕事に就いた翠の前で、柊一もようやく仕事に取り掛かる。今、こんな風に思いながら、彼らを温かく見守ることができるようになったのは、確かに良い影響なのかもしれない。
かつては近寄りがたいと言われていた彼女も、自然と笑みを浮かべられるほどの心の余裕を持つことが出来た。
零下の微笑と言われていた頃の倫子は、もういない。
あとがき:
毎度毎度お待たせしっぱなしですが、1234HITのキリリク小説です。
今回いただいたのは、倫子の仕事中の話。
以前に、オフ友から頼まれて(だったと思いますが)倫子視点の話書いたことがあったので、とりあえずそれとかぶらないように、と。
なので、普通に事務業をさせてしまったのですが。
それと、やたら響一が出てきていて。
良いんですよ、彼はかなりの人気を誇ってますしね。
それに、リクをくれた方も響一を気にいてくれているみたいですし。
そして、やはりシメは主人公達で(笑)
最後になりましたが、左京さま、キリリク&申告、ありがとうございました。
〔2004.11.21〕