優しい寝顔

 夏休みも佳境に入ろうかという時期の昼下がり。
 早い学校では既に夏休みが終わっているところも多いだろう。実際、私立に通う者達の夏休みはもう片手でも余る日数しかない。
 だが、そんなことは彼らに関係ないのも事実だった。
 警視庁刑事部特別捜査スプレス課。
 この部署は、現在、課長の響一以外は特別労働法の保護を受けた子供達で構成されているが、その法の保護にある限り、学校よりも仕事が優先される。普通に学校に通う生徒達より卒業に必要な単位数が少ない分、彼らの場合は刑事として実績を上げることで、それも成績評価の対象にしているのである。
 よって、職業としてであるのはもちろん、学校を卒業するためにも、きっちり仕事をする必要があるのだ。
――きっちり、な…。
 胸中で、今更ながらに学校のシステムを反芻していた柊一は、報告書を打っていた手をおもむろに止めた。半眼で、パソコン画面を見つめながら。そんな彼にも届いているのだ。自分のパソコンの影になって見えないが、前から聞こえてくる小さな寝息だけは。
――何余裕で寝てくれてンだ! 寝たいのは俺の方だっての!
 胸中で毒づき、柊一は苛立ちを隠そうともせずに席を立った。自分の前にいるのは翠だ。というより、今この部屋には自分と翠しかいないのだから、翠以外この寝息の主はいないのだが。
 机の反対側に回ってみれば、案の定、翠が自分の腕を枕代わりに机の上で寝ていた。しかも、幸せそうな笑顔を浮かべて。
――大方、ケーキの夢でも見てンじゃねェのか?
 甘いものが好きで、食い意地がはっている翠のことだ。ありえない話ではない。そんなことを思いながら、そっと翠の隣の明香莉の席から椅子を引き出し、座る。だが、もちろんそんな音では翠が目を覚ますはずもなかった。
 ここ最近、事件だの報告書のまとめだので、2人ともまともに寝ていない。連日最低限の睡眠時間だけで動き続け、今日やっと一段落のメドが立ったところだ。もちろん、まだ作業は少し残っているのだが。
 そんなことを知ってか知らずか、今も翠は静かに寝息を立てている。その姿を見ながら、柊一はあくびをした後、小さくため息をついた。
 翠は比較的寝起きが良く、起こされればすんなり起きるタイプだが、柊一は起こされても自分が眠ければなかなか起きない。それが、ここ数日は寝たのかどうかわからないままに起こされ、活動し、ようやく眠れるかと思えばまた起こされる、といった日々を送ってきたから、睡魔を抑える限界に近かった。翠もそれは同じ条件で、寝起きが良ければ眠くならないというわけではないだろうが、とにかく人の気も知らずにこうやって熟睡しているというのはやはりシャクだった。
「ったく、ンな無防備に寝てっと、何されても知らねェぞ?」
 そっと頬に触れながら、呟く。だが、翠はその行為にすら気付かない。もしかしたら、本当に何をしても気付かないのではないか、というくらいに。
「襲われたって、文句も言えねェんだから、な…」
 どこか、自分に言い聞かせるような調子で言って、柊一は翠の顔を少しこちらに向かせる。それにはさすがに身じろぎはしたものの、その呼吸は寝息以外の何者でもなかった。
「だったら…」
 呟き、今度はそっと翠の体を起こす。余程疲れているせいだろう、それでも翠は目を覚まさない。そのことを充分に確認した後で、柊一はそっと翠の頬に手を添えた。


 あれから、どれだけ時間が経っただろう。いつの間にか眠ってしまっていたらしいことにようやく気付いて、翠が体を起こした。
 つい、机の上でうとうとし始めてしまったから、目覚めがあまり良くない。こんなことになるなら、柊一に断って仮眠室で休んで来れば良かったと今更ながらに後悔する。
――って、柊一は…?
 自分が眠る直前まで目の前で仕事をしていたはずの相棒の姿が消えているのに気付き、軽く室内を見回す。だが、そこに彼の姿は認められず、代わりに机の上に置かれたコーヒーカップを見つけた。
――まだ、あったかい。
 そっとカップに触れ、胸中で呟く。カップの横には砂糖が3つとクリームが添えられていた。
 彼がこんなものを用意してくれているというのは少し意外だった。昔は喧嘩ばかりしていて、今でも軽い口喧嘩くらいはする。もちろん、それはお互いを嫌ってのことではないのは、今は充分にわかっている。だが、照れくさいせいか、滅多にそれとわかる優しさを見せてくれない柊一だから、こんなことですら嬉しく感じてしまう。
――帰ってきたら、ちゃんとお礼言って、眠っちゃってた分、謝らないとな。
 思わず笑ってしまいながら、翠は添えられていた砂糖とクリームを入れ、コーヒーを飲む。そして、カップを置き、仕事に戻ろうとしたのだが、
「あれ…?」
 違和感を覚えて、つい声に出してしまう。カップにうっすらついているのは、口紅ではないだろうか。
 特捜S課に出入りするもので、口紅を付けている人物など、そうそう珍しいものではない。だが、それがカップに残っていることがあるのだろうか。
――ちょっと、まさか…。
 不意に、頭の中を嫌な予感がよぎったその時、
「遅くなってすみません!」
 ドアが開くや否や、謝罪しながら入ってきたのは明香莉だった。制服姿であるところを見ると、学校帰りにそのまま来たらしい。とりあえず、事件も落ち着いたということで、後のことはやっておくから、と明香莉は家に帰らせたのだが、それが失敗だったことは、明香莉の感嘆の声で解った。
「翠先輩、綺麗…」
「へ…?」
 翠にとっては予想外の言葉に、思わず間抜けな声を上げてしまう。だが、明香莉もその翠の声で我に還ったように赤くなって、それから慌てて言ってきた。
「す、すいません! でも、ほんとに綺麗だなって思って、でも、あの、これから捜査に行かれたりするんですよね? だからそんな格好なんですよね? なのに、私、こんなゆっくりしてきてしまって、あの…」
「ちょっと、明香莉、ストップ!」
 まだ何か言おうとしていた明香莉の言葉を制して、翠は気付きかけているものの、うんざりした調子で尋ねた。
「ぼくの格好が、何…?」
「え…?」
 軽くこめかみを押さえながらのその台詞に、明香莉はきょとんとした表情を見せた。そして、そのまま返してくる。
「あ、事件じゃないんですか? 私、翠先輩がメイクしているから、事件がらみなんだと…」
「へぇ、メイク、ねぇ…」
 ふつふつと、自分の中に怒りがこみ上げてくるのが解る。自分に覚えのないことだ。だとしたら、犯人は1人しかいない。
――あの野郎…ッ!
 普段柊一の口の悪さを指摘している翠だが、今回ばかりは怒りの限界点を超え、思いっきり拳を握る。これで手にペンタブでも持っていようものならへし折っていただろう。
「明香莉、メイク落としある?」
「えぇ、落としちゃうんですか〜? そんなお綺麗なのに、もったいな…」
「あ〜か〜り〜?」
 思わず反論しようとした彼女に笑顔で言って、翠は手を伸ばしてみせる。それに無言の圧力を感じた明香莉は、何度も頷いて鞄の中からクレンジングオイルを出し、翠に差し出した。
 それを受け取るや否や、隣の部屋に行こうとした翠だったが、すぐに何かを思い出したように明香莉に向き直った。
「あ、あとさ、こっちに来る時に柊一見なかった? 至急会わなきゃいけない用があるんだけど」
「柊一さんでしたら、氷狩さんに用事があるから科捜研に行くって言ってました」
 若干怯えつつも、しっかりと返してくる明香莉の言葉に頷いて、とりあえず礼を言うと、翠は顔を洗いに行こうとしたが、
「明香莉、ちょっと頼まれて欲しいことが…」
 扉が開くや否や言ってきた言葉が、半ばで止まる。
 そのまま、時が止まったような沈黙。
「……お帰り。待ってたよ、柊一」
「………はよ、翠」
 静かな声音で指をバキバキ鳴らしながら言う翠と、引きつった笑みを浮かべてじりじり後退しながら言う柊一と、そんな2人の間でこわばった表情で固まっている明香莉と。
 暫くの間、そんな膠着状態が続いたが、先に口を開いたのは翠の方だった。
「柊一、ここに座って?」
「は…?」
 予想外の言葉に、柊一は思わず怪訝な声を上げる。だが、翠は、今度は笑顔すら浮かべ、自分の席を示した。
「ぼくが顔を洗ってくる間に、やりかけの仕事、終わらせてもらうからね?」
「何でお前の分まで…」
「痛い目みたい?」
 柊一が皆まで言い切る前に、拳を握って、翠。それには、柊一も乾いた笑みを浮かべ、観念したように翠の席に座る。そして、パソコンのキーボードに手を伸ばすが早いか、
「ッ…!」
 いきなりのことに、思わず息を呑む声が聞こえる。当然といえば当然だろう。不意に、後ろから翠が抱きつく形で柊一を捕まえたのだから。
「あ、翠…?」
 意図が読めないためか、柊一は少し赤い顔で完全に困惑しきった声を上げてくる。だが、翠はそんな相棒の様子など気にも留めていないかのように、戸惑う彼の耳元で囁いた。
「ぼくにこんなことして、ただで済むと思わないでよ?」
 その瞬間、柊一の顔色が困惑から恐怖へと変わる。翠の言葉の意図に気付いたらしい。慌てて言い返してきた。
「や、ほんと、ほんの出来心っていうかさ、ほら、ちゃんと翠の分の仕事もやるし、好きなケーキだって買ってきてやるから、それだけは…っ!」
「明香莉、化粧道具、ある?」
 柊一の言葉などあっさり無視して、固まったままだった明香莉に笑顔を向ける。すると、それでようやく金縛りから開放された明香莉はわたわたと鞄からポーチをとリ出した。
「やっぱり、目には目を、でしょ? それに、明香莉相手なら抵抗できないよね?」
「ごめんなさい、柊一さん」
 翠の言葉の意味を察して、明香莉が申し訳なさそうに言ってくるものの、悪いと思っているのはその口調だけで、表情では明らかに楽しんでいる様子がうかがえる。それには、さすがに柊一の顔も青ざめた。
「ゴメン、翠! 本当に悪かった! だから…」
「問答無用!」
 力の差はほぼ互角の柊一と翠だが、こんな捕らわれ方をしては簡単には抜け出せない。しかも、明香莉が前にいるとなると、蹴って逃げるわけにもいかず。
 結局、柊一が翠と明香莉から開放されたのは、それから15分ほどあとの話だった。





あとがき:
何ていうか、久々の更新にもかかわらず、相変わらずバカなものを書いたなぁ、と(爆)
実は、これを書き始めたのが夏休み終盤ごろで、なので時期が合わないところはあるんですが。
ようは、序盤のあたりが書きたかった、と。
そのあとの不運な柊一も含めて、ですが(笑)
まぁ、この場合は因果応報というんでしょうね。
〔2005.11.19〕
BGM by MAKOTO『VIBRATION!』