乗合列車

 線路は続く。どこまでも。
 道はまだまだ、長くて遠く。先は闇か幸せか。
 それが人の、性(さが)なれば。
 線路は続く。どこまでも。
 果ては現か、幻か。


 時は二十一世紀。科学技術が躍進して、超常現象などテレビのやらせか空想かと思われているような時代だ。少なくとも、彼にとっては。
「あちーッ!」
 七人掛けのシートに手足を伸ばして座り、彼は誰にともなく叫んだ。年の頃は十七歳程、黒髪黒瞳で、Tシャツにジーパンとラフな格好だ。彼の隣には、大き目の紙袋が置かれていた。
「あー、ワールドカップの試合、ビデオ予約すンの忘れてた」
 小さく呟いて、彼は暫く呆然と電車の天井を見上げた。
 絶対見たかったというわけではないが、中学時代サッカー部だった身としては、試合の流れが気になるところではある。ただ、今更言ってもどうにかなるものでもなかったが。
 暑さと、予約を忘れたことに若干のショックを受けて呆けている彼のことなど知らないかのように、電車は変わらない速度で進む。この車内では、彼がどんなことをしようが他人に迷惑をかけることはない。この僅か二両編成の電車には、彼一人だけなのだから。
 彼、野中真司は、母親に頼まれ、田舎の祖父母の家に行った帰りだった。何でも、祖父が腰を悪くしたために、夏収穫の野菜が思うように採れず、困っているとか。それで、夏休みで家にいた真司にその話が回ってきたのだ。
 それは、正直、真司にとっては嬉しい申し出であった。真司の家は、両親と彼の三人で都会の豪華一軒家暮らし。父は有名病院の外科医で、母は進学高校教諭という、いわゆる学歴主義の家だ。そんな中で、真司は医者になることを幼い頃から望まれ、母が勤める高校で医大を目指して勉強している。いや、させられている、と言った方が正しいか。
 医者になれというのは、あくまで親の意思だ。じゃあ何になりたいのかと聞かれれば特にはないのだが、自分が好きなゲームやコンピュータ関連の仕事につければ良いと思う。もっとも、それが出来れば苦労はしないが。
 昔は、無理に自分の望まないことを押し付けられることに反発もした。戦おうともした。だが、それが常に抑圧され、自身の考えを否定され続けると、次第に反抗する気もなくしていた。親が敷いたレールの上を走るとは、まさにこういうことだろう。
 だからこそ、真司は祖父母のいる田舎が好きだった。都会の喧騒がない。夏休みでも勉強しろと言う親もいない。本来の自分がそこに生まれる気がする。それ故に、祖母からの頼みに飛びついた真司に渋面を作った母を説得してまで、田舎に行くと言ったのだ。
 それに、真司自身、田舎の風景が好きだった。単線のゆったりとしたローカル線、行き過ぎる景色は、まばらな民家と青々とした田んぼ。線路から遠く離れたところには壮大な山脈が広がり、山と反対方向に行けば海も臨める。コンビニやスーパー、ファーストフード店など、都会ではありふれた便利な店がない代わりに、自転車で走れば心地良い風が吹き込んできて、山に行けばデパートで買えるカブトムシやクワガタが見られる。海に行けば魚だって釣れる。都会生まれ、都会育ちの真司にとって、何もかもが新鮮で面白かった。
――じっちゃんも、意外と元気そうだったしな。
 つい数時間前まで一緒にいた祖父の姿を思い出し、真司は笑みを浮かべた。
 腰を痛めたということで、祖父は床についていたものの、今すぐにでも仕事に復帰したいと意気込んで祖母に呆れられていたほどだ。それはさすがに真司も止めて、その代わり祖母と頼まれていた仕事をこなしてきた。野菜の収穫をして、納屋の整理をして、薪を割って。そして、土産にと採れたての野菜を貰い、今家路についている。
――これ持って帰っても、父さんも母さんもあんま良い顔はしないんだろうな。
 自分の隣の紙袋を横目で見つつ、真司は深々とため息をついた。
 父と母は自分を医者にしたがっている。そのためには、こうやって田舎の仕事の手伝いをさせる祖父母ですら邪魔に感じているようだった。前に祖父母の家に遊びに行って野菜を貰って帰ってきた時には、母が受け取りはしたものの、小さく「余計なことを」と呟いていた。だから、今回は自分の部屋の冷蔵庫に入れておこう、そう思う。
   カタン、カタン
   カタン、カタン…
 電車は、のどかな景色の中を走っていく。周囲はほとんどが田んぼ。たまに止まる駅は無人駅で、乗客が待っていれば珍しいな、という時間帯。
 よくこんな状態で電車が走っているな、と思う。たいてい、真司が祖父母の家から帰るのは昼過ぎで、電車に乗っていてもあまり乗客に出会った記憶がない。
――そういえば、前にばっちゃんが言ってたな…。
 地元民にとっては、この線路は生活の要なのだと。ここで生活している人で、都会に働きに出ている人、電車通学の学生、そして田舎では手に入らない雑貨を手に入れるために必要なもの。
――けど…。
 胸中で否定して、真司は顔をうつむけた。
 自分にとって、行きの電車は必要なものだ。大好きな田舎へ、祖父母の元へ連れて行ってくれる。真司に幸せな時間を与えてくれる。
 だが、帰りの電車は必要ない。彼を着実に、そして間違いなく、自宅へと連れ去ってしまう鉄の箱。あんなに魅力的に見えていた田舎の景色も、今はくすんで見える。
「帰りたくない…」
 うなだれたまま、彼はそんなことを呟いた。言ったところでどうにかなるわけでもない。彼が今乗る電車の中には、乗客は彼一人。誰も聞きとめる者はいない。
 いや、いないはずだった。
「だったら、君の時間、変えてあげようか?」
「え…?」
 唐突に聞こえた声に、彼は思わず声を上げた。その直後に、一瞬トンネルにでも入ったような錯覚がある。
 おそらく、一秒も経っていない程の時間だったはずだ。何となく目を閉じ、再び開いた時には、真司の目の前に人の姿があった。
 年の頃は十四、五歳くらいだろうか。男といわれれば男、女といわれれば女と思える顔立ちだ。服装はとても現実離れしていて、それこそ真司がよくやるファンタジーRPGの登場人物のような出で立ちだ。手には、先端が三日月状になった錫杖を持っていた。
「お前は…」
 一体どこから来たのか、どうやってここにいるのか、聞きたいことはいろいろあったが、そのせいでうまく言葉が繋がらない。
 暫くの間、沈黙が流れる。響き渡るのは電車の音だけ。だが、それも遠くから聞こえてくるように、ちゃんと耳には届かなかった。
 そうしているうちに、向かいの席に座っていた人物が立ち上がった。まるで、背中に羽根でも生えているかのように、軽く、ステップを踏むように床に足を着く。
 笑顔が顔に張り付いているかのように表情を崩さず、その人物はまっすぐに錫杖を真司に向けてきた。
「願ってみなよ。君の望む世界、君が欲しいもの」
「俺が、望む世界…」
 相手の言葉に従うように呟く。最初に浮かんだのは、田舎に住む自分。自身の将来を決めつけられず、自分の思うままに生きていられる生活。
「そう、それが君の望む世界…?」
   シャァァァン
 凛とした、清廉な鈴の音が鳴る。目の前にいる人物が錫杖を振るったのだ。そこから、こだまするように鈴の音が鳴り響く。
 その音が、まるで全ての感覚を奪っていくようだ。自分が今どこにいるのかすら次第に危うくなってゆく。そんな中で、真司は何とか自分の意識を保ち、言葉を絞り出した。
「ッ、お前は、何者なんだ…!?」
 次第に、風が起こってくる。視界を閉ざされていく中、それでも真司には見えていた。そいつが、笑う姿。
「ぼくはイクシード。未来の、導き手」
 その声を最後に、真司の意識は途切れた。


 蝉の声が、やけにうるさく響いた。何となく、まだ夢の中にいるような感じだが、五感は働いているようだ。とにかく、暑い。暑すぎて、目も開けるのが億劫だ。だが、
「真司、いつまで寝てるんだい?」
 声をかけられ、彼ははっとして上体を起こした。耳慣れた、自分を起こす声。それは母からのものではありえなかった。
「ばっちゃん! あれ? 俺、寝てたの?」
「そうだよ、何呆けてるんだい? それよりも、おじいさんの代わりに畑仕事手伝ってくれるんだろ?」
 即答され、真司は思わず考え込んだ。もう少し前に祖母から同じようなことを言われ、手伝い、そして家路に着いたはずだったが、それが夢だったのだろうか。
「真司ーッ!」
「あぁ、今行く!」
 先に家を出た祖母の声に導かれるように、体を起こす。見回してみても、確かにここは祖父母の家だ。電車の中で見ている夢などではありえない。
――まぁ、暑さにうなされたんだろうな。
 自分の中で解決させて、真司はようやく祖母の後を追った。
 外に出てみれば、夏の陽射しが容赦なく照りつけてくる。ここには、陽射しを遮るビルも高層マンションもないから、熱が直接降り注いでくる感じがする。涼しさを求めるなら断然自分の家の方が良いが、暑くても自然に囲まれている祖父母の家の方が真司は好きだった。静かで、落ち着きがあって、塾や学校に追われる日々を過ごさなくてすむ。
「真司、これかぶっときな。日射病になっちまうよ」
 言って、祖母が祖父の麦わら帽子を手渡してくれる。それを、礼を言って受け取ると、真司は祖母に従って野菜を収穫した。
 夏が本場の野菜は色々ある。ナス、トマト、キュウリが、祖父母の家ではちょうど収穫期で、特にトマトは甘くて、真司は好きだった。
「なぁ、ばっちゃん、トマト一つ、後で貰っても良い?」
「そういうことは採り終わってから言いなさいな」
 聞いてみれば、祖母に苦笑される。だが、その後で「形が悪そうなやつならね」と付け足してくれた。
 今の時期、地下からくみ上げた井戸水はひんやり冷たくて、それで野菜を冷やしておけば冷蔵庫に入れなくても充分冷えるし、早い。今が旬なスイカも、川原に石で囲いをして置いておけば、川の水でちゃんと程よく冷えてくれる。スーパーでは丸々一個よりも半分や四分の一に切って置いてあって、それを冷蔵庫に入れて冷やすものだと思っていた当時は、川の水でも冷えることはあまり信じられなかった。
 田舎に来れば、本当に様々な発見がある。デパートで買うのが当たり前だった虫が草むらや山の中で簡単に見つけられる。毎日スーパーに行かなくても、ある程度の食べ物は手に入る。畑では野菜が取れるし、山に行けば山菜も取れ、猪も出る。海に行けば魚もいる。都会暮らしに慣れた体では不便だと思うようなことがほとんどな場所だが、その全てが真司には新鮮なものでしかなかった。
 何よりも、ここにいれば一人の時間がなくてすむ。実家では、両親共働きで、家にいても顔を合わせることは少ない。昔は母が作っていたご飯も、今は真司が自分で作っている。両親は大抵外食で済ませていた。
 何をどうした時に親と呼べるのか、最早そんなことは彼にはわからなくなっていた。都会の生活は、親という名の監視員がついた一人暮らしのようだ。だが、田舎の暮らしは、確かに家族が存在する。
「ばっちゃん、トマトはこんなもんで良い?」
 言って、真司はカゴの中の収穫物を祖母に見せる。すると、彼女は笑顔を見せて言ってくれた。
「あぁ、こんなもんだね。そしたら、今度はキュウリの方を見てきてくれないかい?」
「うん、わかった」
 祖母の言葉に頷いてみせ、真司はキュウリ畑の方に向かう。始めは祖父母につきっきりで野菜の採り方を教わっていた真司だったが、今はだいたいの仕事を任せてもらえるようになっていた。
 時折流れてくる汗を首にかけたタオルで拭きながら、真司は採ったキュウリをカゴの中に入れていく。
 同じ夏でも、田舎と都会では全然違う気がした。都会はかなり蒸し暑い気がするが、田舎は風が吹いて涼しさを与えてくれる分、からっとした暑さである。過ごしやすさが明らかに田舎の方にあった。
――やっぱ、気分的なものもあるんだろうな。
 パチン、と、小気味の良い音を響かせてキュウリを切り落とした後、一度真司は作業の手を止めた。
 気分的なもの、というところでは、確実にあると言い切れる。でなければ、これほど清々しい気分になれはしないだろう。
――忘れよう、今は。
 もうすぐすれば、帰らなければならない時間が来る。そうなれば、この田舎の生活とも暫しのお別れだ。楽しめる時に楽しんでおきたい。
「真司、キュウリの収穫は順調かい?」
 言いながら、祖母がこちらに近づいてくる。それに、手にしていたキュウリをカゴに入れてから、彼は答えた。
「うん、良い感じ。ねぇ、ばっちゃん、キュウリも形の悪いのちょうだいよ?」
「ったく、あんたは食べることしか頭にないのかい?」
 今度は、さすがに呆れたような顔で返される。それに、真司は「ばっちゃんちの野菜がうますぎるから」と笑顔で付け足すと、祖母も笑顔を見せたのだった。


 畑もそれほど広くなかったためか、収穫の作業は割と早く終わった。収穫した野菜を持って家に帰り、それらを片付けた真司は、祖母の後について祖父のところへ向かった。
「じっちゃん、畑仕事終わらせてきたぜ」
 元気よく祖父の部屋に入っていけば、彼は横になった体勢のまま笑顔を見せた。
「そうか、早かったな。こりゃあワシも引退せんといかんかのぅ」
「おじいさん、気が早すぎですよ」
 祖父の言葉に、祖母が苦笑しながら返す。だが、祖母も真司の力量を認めてくれているようで、すぐに褒めてくれた。
 それから、真司は祖父と様々な話をした。祖父が若い頃の話や、この近くの海で何が獲れたとか、そんな他愛もない世間話。
 祖父が語ってくれる話は、いつも真司にとっては新鮮に感じられ、学校の授業で聞く内容よりもよほど有益なもののように聞こえた。
 だが、楽しいからこそ、時間はすぐにやってくる。家にかけられていた柱時計が四時を告げる音で我に還った真司は、話が途切れたところで席を立った。
「じっちゃん、ばっちゃん、俺、そろそろ帰るな?」
 言いながら、いつも自分の荷物を置いている部屋に行こうとする。だが、それは祖母の意外な言葉で遮られた。
「帰るって、自分の部屋にかい?」
「え…?」
 祖母の言葉に、聞き返す。自分の聞き間違いでなければ、祖母は“自分の部屋”と言った。“自分の家”ではなく。
「も、もしかして、俺って、今日はここに泊まることになってた、とか?」
 若干、自分でも声が上ずっているのがわかる。だが、そうでなければ祖母があんな言い方をするはずがない。そう思って。だが、その想いを否定したのは祖父の言葉だった。
「何言っとるんじゃ? お前は生まれた時からずっとここで暮らしておるだろ?」
「ッ…!」
 すっと、背筋を冷たいものが走った。思わず自分の体が震えだすのではないかと思われるほどの恐怖。それが、目の前で現実のものとなった。
「早くに両親を亡くしてから、本当にまっすぐな子に育ってくれたもんだよ。こんな田舎暮らしでも文句も言わないで」
「しかも、この家を継いでくれるって言うんだから、ありがたいものだよ。だいたい、若いもんは都会に行ってしまうのにねぇ。美津子も、街にさえ行かなけりゃ…」
「ばあさん、やめないか。真司の前だよ」
 祖父の声があって、ようやく二人の会話が止まる。静まり返った室内で、真司は呆然とその場に立ち尽くしていた。
 何が何なのか、理解が出来なくなる。確かに、自分は昨日まで都会暮らしをしていたはずだ。一応両親とも暮らしていたし、昨日は久しぶりに母と学校以外で会話もした。
 それが、全部夢だったというのだろうか。両親と十七年間暮らしてきたという、自分の中にある記憶は偽りなのだろうか。こんなにも、鮮明に父の母の顔を…。
――あれ…?
 思い出せるはずだった。だが、それが出来なくて、真司は思わず怪訝な声を上げる。いくら滅多に会っていなくても自分の親だ。すんなり顔を思い出せるはずだった。だが、真司の中に両親との思い出はない。ただあるのは、幼い頃から畑仕事をしてきた自分の姿。
「どうしたんだい? 真司」
 問いかけられ、ようやく真司は我に還った。先刻までは信じがたいと思っていた事実が、徐々に真実になっていくようだ。
「ごめん、じっちゃん、ばっちゃん。俺、さっき見た夢のせいで混乱してンのかも。ほら、最近、ここも暑くなってきたしさ」
 努めて明るく言うと、祖父母は笑顔を見せてくれる。彼らの言葉のおかげで、真司の中にある疑念は取り払われたが、不安は募る一方だった。


 夕食を食べ、風呂に入って、祖父母と他愛もない会話を交わした後は、自分の部屋に戻って、宿題をしたりゲームしたりするか、布団を引いて寝る。それが当たり前だと言われると、何だかそんな気がしてくるのが不思議だった。実際、今の真司はその"当たり前"に従って行動していた。
 ここには、自分の大好きなテレビゲームもある。いつまで遊んでいても怒られない環境がある。何よりも、それを自分は最も望んでいた。
――俺の求める世界…。
 胸中で、自分の想いを反芻する。だが、それはシャボン玉のように霧散してしまったように感じられた。
 夕食を食べながら祖父母と他愛もない話をしている時も、ゆっくり湯につかっている時も、こうして自分の布団の中に入っている時も、何かが自分の中で警鐘を鳴らしている気がした。
 言い知れぬ不安とは、こういうことを言うのだろうか。
 確かに、自分はこの世界を望んだ。レールの上を走らなくて良い生活。だが、そこに両親は存在すらしない。
――父さん達を消してまで、俺は…。
 布団の中で寝返りをうちながら、考える。果たして、そこまでする必要があったのか。
だが、今は是とする気持ちが強いのも事実だった。
 始めこそ、後悔したりもした。自分の生活を嫌っていただけで、両親を嫌っていたわけではない。頭では、口うるさく言うことさえも自分のためなのだと思っていた。だが、こうやって安住の地に収まっていると、次第に両親との記憶が薄れていくのだ。最初は、初めから田舎で暮らしていた、と言われてもにわかには信じられないような心境だったくせに、今では逆に両親と暮らしていたことが信じられないほどだ。それほど、真司の中の記憶は、祖父母と暮らしてきた思い出の方が鮮明になっていた。少しずつ、だが確実に、自分の中の記憶が塗り替えられていっている。しかも、自分はそれに違和感を持っていない。
 結局、自分は最後まで両親と向き合えなかった。その後悔はちゃんとあるのに、その対象となる人物がいないのはどこか矛盾しているように思われた。
――何でこんなことに…。
 何かがあった、と言うのはわかる。それでなければ、両親と暮らしていたという夢を見たぐらいで、それが確かに昨日までの現実だったとは思うわけがない。だが、その原因が頭に浮かばないのだ。思い出せないというよりも、その記憶自体がない感じ。考えれば考えるほど、思考は堂々巡りを繰り返す。そして、行き着く結論は、仕方ない、ということ。
――このまま、全部忘れてしまえば良い。それが、俺の幸せなんだ…。
 ぐるぐる回る思考を無理に閉じて、真司は仰向けになった。飾り細工のついた照明、板張りの天井、蚊帳、布団に畳、これが今ある現実なのだと、自分に言い聞かせるように。
 何とも言えない感情に支配されながら、真司はようやく眠りについた。


「真司、おじいさん、ご飯だよー!」
 家の縁側で、祖母が声を張り上げて手を振る。それに答えてから、真司は祖父に向き直った。
「なぁ、じっちゃん、きりの良いところで終わろうよ? 俺、腹減っちまったって」
「ったく、真司は食い物のことになると幸せそうじゃのぅ」
 一応農作業する手は止めないながらも言ってくる真司の様子に、祖父は苦笑しながら言ってくる。だが、すぐに手を止めて、続きは飯の後でな、と笑ってくれた。
 祖父が腰を悪くしてから三日が経った。今では、もうすっかり元気になって、真司よりも良く働くくらいだ。その姿を見て、真司は心から感心した。
――やっぱ、十年ちょいじゃ、この道六十五年の御大には勝てないよなぁ。
 昼食を家族三人で囲みながら、真司は苦笑まじりに胸中で呟いた。
 両親と死別した真司を引き取って、農家を営みながらここまで育ててくれた祖父母には本当に感謝している。農家を継ぐから高校は行かなくても良いと言った真司を諭し、彼らは街の高校にも通わせてくれている。必死で勉強して、特待生になって授業料は免除されているものの、やはり仕事が手伝えないのは悪い。だからこそ、夏休みを利用して、出来るだけ祖父母の手助けをしたかった。
「でな、ワシはそこで言ってやった。そんな球も取れんようでは、野球で飯なぞ食っていけん、とな」
「はいはい、その話は耳にタコが出来るほど聞きましたよ」
 昼食を食べながら祖父が語ってくれるのはたいてい昔話だ。今日は気分が良いのか、母校の校歌を歌い出しそうな勢いで武勇伝を語ってくれている。祖母は呆れたように返していたが、真司はこういう時の祖父が大好きだった。特に、夜になるとプロ野球のナイター中継を祖父と一緒に見ている彼にとって、野球の話はいくら聞いても飽きない。
 何より、他愛もない時間をこうやって過ごせるのが純粋に嬉しい。両親がいないつらさに耐えられないようなこともあったが、今はこんなにも楽しく笑い合える。それが、本当に幸せだった。
「じゃあ、じっちゃん、そろそろ畑に行くか? 今日の分も終わらせないとだしな」
「何だ? 食うだけ食ったら元気だな?」
「真司は昔からご飯さえ食べられれば幸せだもんねぇ?」
「何だよー、じっちゃんもばっちゃんも」
 祖父母の物言いに、真司が口を尖らせて反論すると、祖父母は楽しそうに笑ってくる。それには、不服そうな顔をしていた真司だったが、祖父が席を立ち、孫に向かって笑顔を見せてくれた。
「拗ねるな、真司。ほら、早く終わらせるんじゃろ?」
「へいへい」
 祖父の言葉にまだ機嫌に返しつつも、その心は晴れていた。こうした会話も楽しめている自分がいる。当たり前のように今まで生活してきたのに、今は何だか無性に嬉しかった。
「じゃあばっちゃん、行ってくるな?」
 言って、真司はいつも通りに祖母に向き直って言う。それに、祖母もいつも通り笑顔を返してくれる。
 だが、不意にその場面は非日常に転じた。目の前で、祖母が不意に顔を歪める。次の瞬間には、その体が傾いだ。
「ばっちゃん!」
 悲鳴に近い声を上げて、真司は祖母の体を咄嗟に受け止めた。先刻まで一緒に笑っていた祖母は、今はこんなに蒼白である。
「じっちゃん、ばっちゃんを頼む!」
 戸惑う祖父を尻目に、真司は台所から駆け出した。考えるより早く体が動く感じだ。妙に、意識は落ち着いている。
 自分の部屋に駆け込んだ真司は、押入れから自分の布団を引っ張り出した。それを担いで、今度は台所へ引き返す。
 戻ってきてみれば、微かな嘔吐臭が鼻をついた。跡は残っていないが、おそらく祖母が吐いたのだろう。
「じっちゃん、この上にばっちゃんを寝かせて! それから、救急車も呼んで!」
 言うが早いか、台所の床に敷いた布団の上に祖母を寝かせる。それから、苦しむ祖母に近づき、声をかけた。
「ばっちゃん、ちょっとゴメン」
 一応謝って、真司は祖母の腹部に触れた。うめく祖母が押さえているのは下腹部だ。今真司の中に思いつく病名はいくつかあるが、なぜそんなに病名が浮かぶのか、なぜ対処法がわかるのか、今は考えられなかった。
 祖母の痛みの原因を探るために、祖母の腹部に触れ続ける。祖母の苦しそうな顔に目を背けたくはあったが、そんなことを言っている場合ではない。
 そして、ようやく、彼は一際苦しそうにした場所を見つけ出した。右下下腹部――そこには、盲腸や虫垂がある。つまり、虫垂炎。
 その病名が頭に浮かぶや否や、真司は薬箱から湿布を取り出した。それを患部に張り、今度は冷蔵庫に向かう。これも薬箱から出した氷嚢に氷を詰め、水道から水を流し込むと、口を縛り、湿布をした患部に当てた。その作業を終えた頃に、ちょうど祖父が戻ってくる。
「救急車は後三分ほどかかるそうじゃ。それまで…って、真司、どうしてお前がそれを?」
 驚いた表情の祖父に、聞かれた真司自身も訳がわからずに見返す。だが、よくよく話を聞いてみれば、患部を冷やすことは適切な処置だったようだ。それには、真司も驚かされる。だが、
「あ…」
 不意に、鮮明に浮かぶものがある。これは、自分が虫垂炎にかかった時、父がしてくれた手当てだ。あの時はたまたま両親が家にいて、苦しむ真司を心配してくれた。医者にするためではなく、自分の息子として。それに、医者の父に救われたという想いがあって、あの時、真司は医者になりたいと思ったのだ。それからである、両親が厳しくなったのは。
――それなのに、俺は…。
 消えてしまえ、と思った。嫌になったから、それを失くしてしまうために。例え、今は医者になりたくないと思っても、勉強してきた中で得られるものも多かったはずだ。なのに、つらかった記憶に塗りつぶされて、全部忘れてしまっていた。
 医者にはなりたくない。でも、両親まで捨てたわけじゃない。一番消さなければならなかったのは、立ち向かうことを忘れた、弱い自分自身だ。
「お帰り」
 その台詞を境に、世界が崩壊した。
 目を開けてみれば、そこは先刻までいたはずの電車の中だった。目の前の座席には、微笑を浮かべたイクシードが座っている。頬を伝う涙が、これが現実だと教えてくれていた。
「どうだった? 君の望んだ世界は」
 表情を変えずに、イクシード。電車が揺れるたび、小さく錫杖が鳴る。その音をどこか清々しい気持ちで聞きながら、真司は答えともつかない言葉を返した。
「俺、帰ったら両親に話してみる。医者にならずに、自分の道、探してみたいから。ダメ元だと思って、ぶつかるところから始めてみるよ」
「そう…」
 真司の言葉に、イクシードはたった一言だけを返してきた。だが、その表情がどこか満足げに見えたのは気のせいだろうか。
「もう、逃げたりしない。嫌なことからも、自分自身からも。今なら、すげェ頑張れる気がする」
 窓の外に目を向けて、呟いた台詞に、しかし今度は何も返ってこない。だが、真司もあえて振り向こうとはしなかった。
 帰りの電車が、こんなにも晴れやかな気持ちで進んでいく。それは、きっと澄みきった青空のせいだけじゃない。
 乗合列車は、今日も静かに一人の乗客を運んでいる。





あとがき:
久しぶりの更新になってしまいましたが、暖めてきた小説をここでアップしてみます。
昨年投稿した小説だったのですが、日の目も見ないままというのは、と思いまして。
アップしてみた1番の理由は、この話を好きだと言ってくれた友達のおかげですね。
この話に関しては、正直自信をなくしていたので、アップできたのは彼女のおかげだなぁ、と。
そんなこんなで、初不思議系話。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
〔2007.6.20〕