この声は、誰にも届かないと思っていた。目に映るものがこれだけ限られた世界で、かけがえのないものが何なのかも解らないまま。  あの時の自分のままでいたら、今、どうしていただろうか。


――suicide note――


 いつもと何も変わらない学校風景。外には、昼休みに羽を伸ばす生徒の姿。中には、語らい、笑い合う友達同士、予習ややり忘れの宿題に励む生徒の姿がある。そう、何てことはない、普通の学校の様子。
「仁科くん」
 そんな中にあって、声をかけられ、大袈裟な程びくつくのが解る。だが、それを何とか表に出さないようにして答えた。
「何?」
 笑顔さえ浮かべて、柊一。すると、声をかけてきたクラスメイトの少女は、彼の内面に気付かない様子で言ってきた。
「ここの問題、教えてくれる?」
「あぁ、ここは…」
 言いながら、言われた箇所の解説をしてやる。それが終わると、彼女は礼を言って去って行った。
 彼女は知らない。柊一がどんな想いで対応したのかを。そして、この空間がどんなに苦痛かを。
 また、誰かに声をかけられる前に、彼はそっと席を立った。吐き気すら覚え始めた自分を、抑えるように。
 過去の記憶が、傷をえぐり出す。こちらを見ながらだったり、離れていきながらだったり、目の前で内緒話されるつらさ、声をかけられない悲しみ、独り取り残される寂しさ、その全てが、心にナイフを突き立てて、自分を臆病にしていく。そんなこと、考えたくもないのに…。
 知らないうちに、小さく舌打ちしていたことに気付く。そんな自分に、また苛立ちを募らせて。
 あれから、自分は変わったと思っていた。"ヴァレン"に入って、自分には力があることを知って、怯えて何も出来なかった自分を捨て去って。逃げずに立ち向かっていける。そう、思っていた。
 なのに、心が覚えている。蔑まれた日々。罵倒の言葉の数々。孤独と寂しさ。その全ては、いつまで経っても忘れることが出来なかった。そして、同じことを繰り返す。仲間だと認め、共に笑っていた者達の裏切り。
 自然と足が向いていたのは、やはり屋上だった。小学生の時もそうだった。逃げ場所はいつもここ。屋上から見える空が好きで、1人になりたくて、ここに来ていた。今見える空は違うけど、気持ちに大差ない。空はこんなに晴れ渡っているのに、心だけは曇ったまま。
「やっぱりここにいた」
 不意に、後ろから声が聞こえる。だが、フェンスにもたれかかっていた柊一は、振り返ることもなく、ぶっきらぼうに返した。
「何の用だよ?」
「随分な言い草だな? さっきまでの教室での態度とは大違いじゃないか」
「るせェ。てめェなんかに愛想振りまいてどうするよ?」
 隣に立つのを気配で感じながらも、柊一は反対側に目を向ける。今、お前の顔なんか見たくない、そう言いたげに。
 それは相手にも届いたのだろう。小さくため息をつく声が聞こえてきた。
「いつまでそうやって逃げてるわけ? 中学に入って2ヶ月が経つのに、全然変わってないじゃないか?」
「お前には関係ねェだろ? お前こそ、そのお節介な性格、何とかしろよ」
 吐き捨てるように言えば、今度は反論もない。それで、ようやく諦めたかと思ったが、
「お前、じゃない。名前、知らないなんて言わせないからな」
 真っ直ぐにこちらに向けてくる青瞳とぶつかる。それで、ようやく、無理矢理そちらを向かされたのだと解った。真剣に、自分のことを想って言ってくれる台詞だと解るほど、慣れない感情に煩わしさを覚える。
「…離せよ」
「離さないよ。約束しただろ? ずっと、側にいてやるって」
「そんな約束、いらないッ!」
 ぱしっと乾いた音を立てて、それまで頬に当てられていた手を払う。この優しさがとてもありがたいものだとは解っている。でも、慣れていないから、どう返して良いのか解らない。
 強がることを覚えたから、どう受け入れたら良いのかを聞くことさえ出来ない。何より、優しくされた後、裏切られるのが恐い。
 どうせ裏切るなら、優しくしないで。もうこれ以上、傷つけないで。痛いのは嫌だ。悪いことだってするから、仲間外れにしないで。嫌いにならないで。
 自分自身でも耳を塞ぎたくなるような声が心の中を占める。聞きたくなくても聞こえてきてしまうのは、それが、自分の本心だから。
「そうやって、いつまで嘘をつき続けるつもり?」
「ッ…!」
 まるで、自分の想いを言葉にされた気がした。それが、余計にこの傷をえぐる。
「お前こそ、いつまでこんなこと続けるつもりだよ? 良い加減、無駄だって気付いたらどうだ?」
「ぼくは無駄だって思うことはしない主義なんだよ」
「……」
 きっぱりと言い放たれた言葉に、つい二の句が継げなくなっていた。確かに事実だと認めてしまっている自分がいるから。この人物によって懐柔されているらしい自分がいるから、言葉が浮かばない。
「…東麻」
「だから翠で良いってば」
 あんまり言うから名字で呼んでやれば、すぐさま指摘される。だが、それは黙殺することにして、柊一は言葉を続けた。
「今日は、行くんだろ? 庁舎…」
「うん。授業が終わったら迎えに行くから」
「来なくて良い。俺は帰るんだ」
「何でだよ、一緒に行くんだろ?」
 笑顔を浮かべる翠にぶっきらぼうに返せば、すぐ不服そうな声を漏らす。だが、すぐに機嫌を直して笑ってきたから、なぜか自分も笑ってしまっていた。
 同じ価値だと認めてくれる人は、案外近くにいたのかもしれない。





あとがき:
一ヶ月ぶりの更新になってしまいましたね;;
久しぶりに、お題の更新を。
始めに、この曲を聞いた時にもこういうイメージだったので、そのまま、という感じで。
まだ翠と出会って、それほど経っていない頃の話ですね。
こういう過去話、これからもうちょっと増やしていきたいところです。
〔2006.2.1〕
BGM by Janne Da Arc『suicide note』