声の温もり
このまま、戻って来れないと思った。帰りたくないと、願ってしまったから。
本当のことが解らないことが、こんなに恐いなんて思いもしなかったんだ。
夜、眠りにつく時に、蝕まれるような胸の痛みを感じる。それは、別に身体的な疾患とかじゃなくて、不安と呼ぶべきものだ。
人とは違う自分。自分のことなのに、名前さえも曖昧なんだ。
ぼくの名前は、目を覚まして最初に教えられた言葉だった。
『気付いたか?翠』
『あきら…?』
『そうだよ、自分の名前じゃないか』
心配げな顔をして、男の人がそう言った。それから、ぼくの後ろを指差して、
『ほら、ここに書いてあるだろう?とうまあきら、って』
その言葉に、ぼくはすぐに納得した。だって、自分の名前は自分で思い出せなかったけど、この目の前で笑ってくれている人は、叔父貴のことは、信じて良いって思えたから。
でも、異変に気付いたのはそれから数ヵ月後、ぼくが受けた実験のことを事情聴取で聞かれた時のことだ。
当時3歳だったぼくは、父さんのしたことが法に触れることだって何となく解っていた。だから、知ってることは答えよう、そう思ってたんだけど、ぼくは逆に"知らない"という事実を突きつけられた。
何も解らなかったんだ、自分が実験を受けた時のこと。
記憶にあるのは、優しい父さんと、顔は思い出せないけれど、ぼくを抱き寄せてくれた母さんの温もり。それだけ。自分がどうやって生きてきたかも解らないんだ。しかも、それを教えてくれる人はいない。親類との関わりはほとんど避けてたし、実験の被験者になるということで戸籍は抹消されてたらしいから。
その事実が、子供心にすごい衝撃をもたらした。ちゃんとは理解できていなかったと思う。でも、頭のどっかでは解ってた。それに、父さんがいなくなった、それだけで、ぼくには衝撃が強すぎたんだ。
全部を否定されたと思っていた。今までのことも、それから、歩もうとしている未来までも。
でも、そんなぼくを救ってくれたのは、たった1人の少年。不確かだと思っていた自分の存在が次第に確立していく。そんな感覚を、与えてくれたから。
『うわー』
『…何つー声出してンだ、お前は』
ぼくが何とも言えない声を上げると、彼は呆れたような表情で返してくる。それに、ぼくは手に持ってた写真を示してみせた。
『だってさ、この写真、すっごい変な顔してるし』
『どれ?』
ぼくの方に椅子を寄せて、中学最後の文化祭の写真を見るや、その表情が乾いた笑みに変わった。
『って、変な顔してンの俺の方かよ』
『こんな顔、人類史上始まって以来の快挙じゃない?』
『てめェ…』
ぼくが大真面目な顔で言うと、低く唸る声が返ってくる。それに笑顔を返して、ぼくは背もたれにもたれかかった。
『だってさ、こんな面白い顔、そうそう拝めるもんじゃないもんな?』
『何度も拝ませてたまるかよ…』
半眼できっぱり言ってくるその言葉に、ぼくは声を上げて笑ってしまったんだけど、不意に笑うのをやめた。
思えば、こんな日々を過ごせるなんて、思わなかったんだよね。もしかしたら、実験の時に、もしくは美咲さんと有哉さんがいなくなった時に、失っていたかもしれないこの命。ちゃんと、それから何年も続いている。
『ほんと、よく頑張ってここまで生きてきたよ…』
気付けば、そんなことを口走っていた。慌てて口をふさごうとしてももう遅くて、思いっきりはたかれてしまう。
『ったぁ…』
『そんなしょーもないこと言ってんじゃねェよ。つーか、ンなことしみじみと言える写真かっての』
ぼくが頭を抱えてうずくまってるスキに、彼が写真を取り上げてため息をつく。そして、ぼくの前の机に座りながら言ってきた。
『あぁ、そう。お前がそんなこと言うんなら、俺も刑事やめて良いよな?お前がいなけりゃ、俺はスプレスなんてめんどくさいことしなくて良かったんだし』
『何バカなこと言ってるんだよ!お前は、特捜S課には必要な存在になってるんだ!それに…ッ!』
言いかけて、ぼくは思わず口ごもってしまう。教室の中だってのを忘れてたんだ。彼が普通に素を出してるから、思わず忘れていたけど…。
みんなから注目を浴びて、ぼくは思い切り立ち上がってたんだけど、そのまま何事もなかったフリして席に着く。でも、
『それに、何?』
あれだけ怒鳴ってた声を聞き逃してるはずもなくて、皮肉っぽい笑みで聞かれる。それに一瞬躊躇してから、ぼくは恥ずかしさで火照る頬に手をやり、言った。
『約束しただろ。ぼくと、刑事を続けてくれるって。一緒に、いろんなこと、乗り越えていくんだ、って』
搾り出すように言い切ると、不意に、優しい手がぼくの髪に触れた。
『だったら、もう変なこと言うなよ?昔みたく、消えてしまいたい、とかさ。な?翠』
『うん』
優しい声で名前を読んでくれるから、ぼくも素直に頷くことが出来る。たった1人でも、ぼくを必要としてくれる人がいてくれるなら、お前が、そう言ってくれるなら、ぼくは…。
「…きらっ、翠!」
ぼくを呼ぶ声が聞こえる。その声で、ぼくはゆっくりと目を開けた。
最初に飛び込んできたのは、白い天井。そして、色をなくした、幼げな少年の顔。
「あ、柊一…」
「バカ野郎!間抜けな声出してンじゃねェ!いきなりぶっ倒れたんだぞ、お前」
言われて、ぼくは記憶を辿る。
えっと、確か、今は体育の時間でバスケをやってて、急にめまいがしたんだっけな。
「ったく、いつもの発作だって解ってたけど、心配したっての」
そうやってぶつぶつ文句を言ってくる柊一に、ぼくは思わず笑ってしまっていた。
試合をやってる時、柊一がぼくにパスを回してきたんだけど、急な発作でふらついてて、ボールを顔面で受けちゃったんだよね。それを自分のせいだって気に病んでくれてたんだ。
傍目には解らないかもしれないけど、ちょっとしょげてる感じの柊一に手を伸ばしてみる。すると、彼は一瞬驚いたような反応をしたけど、ぼくが触れても抵抗はしなかった。
「ありがと、柊一。こんなに心配してくれて」
「な…ッ!」
ぼくが言うと、彼は驚いたような声を上げて勢い良くぼくの手を振り払ってきた。おかげで、すくいとった雫が落ちてしまう。
「バ、バカッ!さっきのは顔を洗ってだな…」
「はいはい」
柊一の言い訳をさらっと聞き流して、ぼくは身体を起こす。うん、大丈夫みたいだな。
確認だけして、ぼくはベッドサイドに移動したんだけど、不意にさっきの夢を思い出す。
いなくなってしまえば良いとずっと思っていた自分。それでも、ぼく自身のために、ぼくを大切にしてくれる人のために頑張ろうと思えた自分。そこへの転換期を作ってくれたのは、間違いなく彼で…。
「ねぇ、柊一、ぼくの名前って、翠、だよね?」
「はぁ?」
言うや、彼は頓狂な声を上げてくる。でも、すぐにため息をついて、それから笑ってみせた。
「当たり前だろ?お前に良く似合ってるじゃんか。それに、俺は結構良いと思うけどな。翠、ってさ」
「あ…」
言ってもらって、ようやく気付く。大事なのは、本当の名前かどうかじゃないんだ。その名前を呼んでくれる誰かがいる。そっちの方が、ずっと大事なんだよね。
「似合ってる、か…。うん、確かに、あきらって響きがしっくりくるしね。他の名前なんか考えられないや」
「解ンねェぞ?実は権三郎とかだったらどうする?」
「うわ、絶対やだよ!て言うか、どっから来たんだよ、そんな名前」
茶化して言ってくる柊一の言葉に反論しながら、ぼく達は保健室を後にする。
そのまま、教室に帰りつくまで他愛のない会話をしていたぼく達だけど、翠って名前を呼ばれるそのたびに、ぼくの心をこんなにも暖かくさせること、彼はまだ知らない。
あとがき:
久しぶりの翠視点ですね。
突発的に思いついて、書いてみたんでわりとぐちゃぐちゃだったりするわけですが。
帰りの電車でケータイに打って、あとはパソコンで仕上げたって感じです。
この2人の友情物語は書いていて楽しいんですよ。
2人の中にある、切っても切れない絆。それを、2人がほとんど認識することなく、当然のように過ごしている。そんな感じに書けていたらなぁ、と。
あ、あと、権三郎は本当に思い付きです。ぱっと思いついたのがこれだったので。
実際にこんな名前の方がいたらすみません。
〔2004.6.20〕