蔆紜区立青桐病院。区内でも有数の総合病院である。最新鋭の設備が揃い、評判も良い。
「今日は何の検査?」
「や、今日は結果を聞きに来ただけだよ。本当はもうちょっと早く取りに来なきゃだったから、また葉月先生に怒られそうだ」
 柊一の問いに、翠は苦笑混じりに答える。ここ数日事件が続いて来られなかったのは事実だが、葉月なら何かの理由をつけて文句を言ってきそうだ。
「でもま、医者としてだけじゃなく、自分の子供みてェに心配してくれてンだから、感謝しねェとな」
「うん、そうだね」
 どこか楽しげに言う柊一の言葉に、翠も笑顔で頷いてみせる。
 氷狩葉月は、翠の主治医だ。幼い頃、翠は、ヒトゲノム解析計画第2段階における、ラジカルを超人類に変える実験の被験者になった。その結果、翠はジェネティックレイスの身体を得たものの、後遺症として性別を失い、突然発熱したり呼吸困難に陥る身体になってしまった。それ以前の記憶も、自身の性別を知る全ての手掛かりすら奪われて、ただ残されたのは不安定な身体だけ。そのため、それ以来、葉月が翠の身体を診てくれているのである。
「あ、柊一くん、翠くん、氷狩先生のところに来たの?」
 院内に入れば、顔見知りの看護師が声をかけてくれる。ほぼ定期的に10年近く病院に通っている翠は、おかげですっかり有名人だ。柊一も、翠についてよく病院に来ていることと、母親がこの病院で看護師をしているためによく知られている。
「ほんと、相変わらずすごい歓迎のされようだな…」
 もう既に何人に声をかけられたのかすら解らない状況に、柊一は思わずげんなりとした表情で呟く。それには、翠も思わず苦笑していた。
「まぁ、さすがにもう慣れたけどね。あ、でも、柊一は"良い子"にならなきゃいけないから疲れるわけだ?」
「てめ…。俺はなぁ…ッ!」
 翠の言いように、柊一は思わず怒鳴りかけるが、隣を看護師が通り過ぎようとしていたために口をつぐむ。その様子を、翠はどこか楽しそうに見ていたが。
「…後で覚えてろよ?」
「何とでも」
 半眼で、声を押し殺しつつ、柊一。だが、翠は涼しい顔でその台詞をかわす。これもいつものことなので、柊一もそれ以上は何も言わなかったが。
 春のあたたかい陽射しが差し込む、ガラス張りの歩き慣れた廊下を進んでいく。本来なら、院内に入ってそれほど距離がない位置に向かっているはずなのに、途中何度も看護師に会って足止めされているおかげでなかなか進めなかった。
 結局、青桐病院に到着して10分後、
「失礼します、葉月先生」
 ドアをノックし、まず翠が声をかけて中に入る。室内にいたのは、30代半ばの、青髪黒瞳に細い眼鏡をかけた医師と、彼女と同年代くらいで、栗色の髪に金瞳の幼顔の看護師だった。
「あれ? 母さんも一緒だったんだ?」
 声を上げたのは柊一である。その言葉に、看護師、由香は笑顔を浮かべてみせた。
「うん、翠ちゃんが来るなら、柊ちゃんも来るだろうなって。柊ちゃん、この間の定期検診、サボったでしょ?」
「う…」
 さわやかすぎるくらいの母の言葉に、柊一は思わず息を飲む。彼女の手に握られていた注射器に反応して、である。
「由香、さっさとそのバカ連れ出してくれない? 翠に結果話してる時に、注射が嫌だって泣かれちゃたまんないわ」
「だぁれが泣くかッ!」
 机の上に頬杖をついて言う葉月の言葉に、当然のことながら柊一が怒鳴り声を上げる。それには、翠も由香も苦笑していたが。
 柊一としても、葉月にそこまで挑発されて黙って帰るわけにもいかず、素直に由香が指示する通り腕を出す。ただ、この挑発が柊一の性格を利用してのことだというのは非常にシャクだが。
「あれ? 柊ちゃん、鼻の頭、すりむいてるよ? どうかしたの?」
 言われ、彼は今更気付いたようにそこに手を伸ばす。先刻ほど痛みはないものの、確かに怪我はしているようだ。
「あ、これは…」
「大方、バカなこと考えてて派手にすっ転んだんじゃないの?」
 説明しようとした柊一の言葉を遮って、葉月が皮肉たっぷりに言ってくる。それには、さすがに柊一も声を荒らげた。
「バカ言うな! 第一、何のためにここに来てやったと思ってンだ!」
「あー、はいはい、図星さしちゃってごめんなさいね」
 怒鳴る柊一をなだめるように手を振って、葉月は検査結果が記された紙を翠に手渡す。どこまでもシャクに障る言い方をする彼女も、この病院では腕利きの医者だというのだから、世の中間違っているんじゃないかとつい疑いたくなってしまう。
 そのまま、柊一は母から傷の手当てと検診を受け、翠も検査結果を見終えていた。そこで、ようやく気付いたように葉月が例の石に目を向ける。
「で、あんたが持ってるそれ、何?」
「何って、見たまんまだろ?」
 聞かれ、質問で返してみせる柊一だが、さすがに病院に持ち込めば不自然に思われるだろう。ここに来るまでの間、看護師にも聞かれた。
「なるほど、柊ちゃん、これにつまずいたの?」
「う…」
 由香に言われ、柊一は思わず口ごもる。母に対してあまり怒鳴りたくないというのと、どうせ先刻の会話でバレているのも解っていた、というのもある。
 そのまま黙ってしまった彼の代わりに、翠が苦笑しながら説明した。
「…それで、一度調べてみようということになったんです」
「…暇ねぇ、あんた達」
 全てを話し終えた後の葉月に第一声はそれだった。だが、2人共、そう思っていた部分もあっただけに言い返せないのだが。
「ま、何にしても、あたし達には関係のないことね。じゃあ、それについてゆっくりと調べてきなさいよ」
 言って、葉月は全く興味をなくしたかのように机に向かう。それには、思わず拳を握った柊一だったが、ここにいても何も始まらないのは事実だ。
「とりあえず庁舎に行くか?」
「うん、そうだね」
 その方が何か解ることがあるかもしれない。そう思って、ドアを開けようとした瞬間、
「すみません、氷狩先生。例の件の報告書を…」
「大鎌のおっちゃん!」
 入ってきたのは、警視庁刑事部捜査一課の刑事、大鎌悟警部である。捜査一課の刑事達からはあまり良いように思われていない特捜S課の面々だが、悟は柊一の父の友人ということもあってか、庁舎でも良くしてくれる人物である。
 その彼も、中に入ってきて早々柊一達と出くわし、かなり驚いたようだった。
「柊一、翠、何でお前達が…」
「あ、ぼく達はこの間の検査報告を聞きに…」
「そんなことより、おっちゃん、車で来たなら俺達を庁舎まで連れてって!」
 翠の言葉を遮って、柊一は大鎌警部の胸倉を掴まんばかりの勢いで言う。すると、彼は、その勢いに驚いて苦笑しながらも頷いた。
「あぁ、構わんよ。2人共、先に車に行って待ってろ」
「サンキュ、おっちゃん!」
 快く引き受けてくれたことに気を良くした柊一は、笑顔を見せて礼を言う。始めは呆れた表情を見せていた翠も、しっかり礼だけは言って、2人共葉月の部屋を後にしようとしたが、すんでのところで止められた。
「柊一、翠、庁舎に戻ったらまず亜純のところに行きなさい。あいつに分析を頼んでいた方が早いでしょ」
「あ、はい、そうします」
 翠が葉月の言葉に頷いてみせ、2人は今度こそ部屋を出た。
next>>
〔2005.6.23〕
BGM by 175R 『Melody』